鼻猫亭

毎日のこととかぼんやり考えたことなど

野次が容認される意味が分からない

 都議会で、育児支援策について質問中の女性議員に、別の議員が「早く結婚した方がいいんじゃないか」と野次を飛ばした話についてだけど、他人の個人的な事情を揶揄して嘲笑するのって端的に言って侮辱以外の何物でもないし、公共の場で誰かを侮辱するなんてことは、理性的な大人のすることとしては、個人的にはちょっと理解しがたい感覚だ。

 そもそも、シングルマザ―の問題も含むはずの育児支援策についての議論の場で、「女性は結婚して家庭に入るべき」という前時代的な価値感に基づく発言をすること自体、育児支援の問題に対して無関心だってことの表れなんだろうと思う。

 そんなわけで、ぼくとしては、野次の発言者を早く特定して発言に対する責任を問うべきなんじゃないかと思うんだけど、そもそも、議会において「野次」を飛ばすこと自体、議会にとって有益なんだろうか。

 これに関しては、昔から「野次は議論の華」という言葉を耳にするし、時として「野次があることで議論が活性化されるので、積極的に容認すべき」という意見も聞くのだけど、やはりそれは間違いだと言いたい。議論の場での野次は、健全な議論の形成に有害な行為であって、基本的に容認すべきじゃない。


 第一に、野次は発言に対する妨害だ。

 議論では、意見の陳述者に対して、意見をきちんと発言させることがまずは重要だ。
 議論とは、突き詰めていえば、異なる意見を持つ同士が、自分とは異なる意見を聴き、自他の意見の長所・短所を見極め、双方の意見を修正・調整しながら、全体にとって最適な結論を導くプロセスのはずだ。そのための第一歩として、意見を陳述する機会と、意見を聴く機会をきちんと確保する必要がある。
 これに対して野次は発言者の意見陳述を妨害する。
 発言者に心理的圧力をかけ発言を委縮させるだけでなく、発言中にノイズを発することで聴取者を妨害する。後者は発言に対する物理的な妨害だし、下手をすると発言を暴力で阻止するのとあまり変わらない。


 第二に、野次は効率的な議論を阻害する。

 議論には争点がある。効率的な議論のためには、議論の参加者内で早い段階で争点を共有し、争点に対して集中的に意見を交換することが望ましい。
 議論に無関係な野次が飛び交うことは、争点を混乱させることになりかねない。これは、集中的な議論を妨害し、議論の効率性を阻害することになる。


 第三に、野次は発言に対する責任の所在を曖昧にする。

 とりわけ国会や自治体の議会のような場においては、「誰がその発言をしたのか」は非常に重要な問題だ。
 「その人がどのような発言をしているか」「どのような意見を持っているか」は、選挙での重要な判断材料である。先の都議会の例で言えば、育児支援に対してより積極的な政策に期待している人は、次回の選挙では野次を飛ばした議員に投票すべきではないだろう。

 しかし、野次はイレギュラーに発せられるため、往々にして、誰による発言かが特定されない。特定されない場合には、とんでもないことを言っていても、責任を取らせることができない。

 結論として、野次は、無責任な立場から発言者を妨害し、議論を混乱させる行動に他ならないと思うのだけど、どうして「野次は議論の華」なんて言われて、時として積極的に容認されているのか分からない。
 仮に百歩譲って、野次が議論の(表面的な)活性化をもたらすとしても、野次みたいな幼稚な方法でしか議論を活性化できない議員は、そもそも議員としての資質がないと思うんだけどなあ。

キュウリの花が咲いた

 こないだキュウリを育ててる話を書いた。(キュウリを育てる - 鼻猫亭

 みるみる大きくなったことも書いた。

 茎が太くてたくましい事も書いた。何故か蔓を伸ばさないことも書いた。

 ついに、そのキュウリが花を咲かせた。太陽に向かって咲く、とても大きくて立派な花だ。

 おかしいな、ひまわりにしか見えない。

 相方曰く、
 「茎の伸びかたも、葉っぱの形も、どこからどう見ても最初からひまわりだったじゃん。あなたたちがどうしてこれをキュウリだって言い張るのか今までずっと、全く理解できなかった。」
 
 だって、蒔いたのは確かに「キュウリの種」と書かれた袋から出した種だったんだから仕方がない。

 娘は、花が咲いてもなお、頑なにこの花はキュウリだと信じている。

 「だってさ。ひまわりだとすると、花が太陽の方向に向いてるはずでしょう。この花は太陽の方向からちょっとずれてるでしょう。だからこれはひまわりじゃなくてキュウリだよ。」
 
 憐れ、娘はすっかりキュウリ教に洗脳されているらしい。そのうち、持ってるだけで植物が良く育つ壺とかを買ってそうで心配である。

 しかし、ひょっとすると…ひょっとすると、この大きな花の真ん中あたりから、蔓がにょろにょろと伸びてきて、キュウリの実を付けるのかもしれないぞ。なんせ、蒔いたのは確かにキュウリの種だったもんな。

 なんて思ってたら、ふと足元に、なんだか小さな小さな植物が育ってるのに気づきました。

 遅いよ!!!

寿司は回すに限る

 先日、取引先に食事に誘われて寿司を御馳走になったんだけど、大変美味しい寿司で、幸せな気分になった。

 いかにも正統派の江戸前寿司といった風情の小ぶりの寿司で、こはだはキリッと締まっていたし、ヒラメは昆布の風味がねっとりとして、マグロはほんの軽くヅケにされていた。この手の「仕事がされている」寿司を食べたのは、ひょっとすると初めてかもしれない。きちんと仕事がされているので醤油を付ける必要がない寿司など、話には聞いていたが実在するとは思わなかった。

 改めて、寿司って美味しかったんだなあ、日本に生まれて良かったなあと思った次第。

 ただ、唯一、惜しむらくは、回っていなかったことである。

 この際ハッキリ言っておくが、寿司は回らないものよりも回した方がうまい。
 世の中の一部には、寿司を回さないことを良しとし、これを珍重する風潮があるようだが、断固として意を唱えたい。寿司はすべからく回すべきである。

 第一に、回した寿司には安心感がある。
 レーンの奥の方から次から次へと皿に乗った寿司が運ばれてくる姿は感動的ですらある。
 途切れることの無い食料の供給、これは、古来から飢えの恐怖と闘ってきた我々に大いなる安心感を与えてくれる。安心感を通り越して「こんなに食物が流れてきて地球的に大丈夫なのか」と不安になったりするほどだ。

 これに対して回らない寿司はどうだ。目の前のガラスケースに何やら魚の切り身らしきものが入ってはいるものの、それが寿司となるかどうかは判然としない。
 そもそも、回らない寿司屋の場合、身の処し方を少し間違えただけで、いつ、大将が「出て行きやがれ。お代なんざ要らねえよ。おとといきやがれ。」と塩を撒きだすか分からないと聴く。私は回らない寿司には行かないのだが、そういうことが度々あるということは、主にグルメ的な漫画が教えてくれたので間違いはなかろう。
 いつ食料が供給されるか分からない不安。回らない寿司にはそれが付きまとう。おそらく。たぶん。きっと。

 第二に、実は、寿司は回すことによってネタのグレードが上がることがある。
 アフリカの川に棲む白身魚は回すことによって「タイ」になったりする。カレイのひれの脇の筋肉が「エンガワ」になったりする。マンボウも回ると「ネギトロ」になるし、何かよく分からないカプセルに油を入れたものが「イクラ」になる。
 回らない寿司にはそんなことはまず、生じない。タイはタイであり、エンガワはヒラメの肉であり、ネギトロはマグロの中落ちであり、イクラは鮭の卵である。回さない寿司のネタは、そのままのネタであり、何らグレードが上がったりしない。
 きっと、回らない寿司で出てくるイクラを回した場合には、おそらくチョウザメの卵かなんかに変化するに違いない。勿体ないことだ。

 寿司は回すに限る。きっと、回すことで寿司の中の旨味成分に微妙な振動が伝わり、味もまろやかになったりとかするはずだ。科学的な根拠は知らないがそうなのだ。

 しかし、ここで再度思い返してみる。
 回らない寿司の丁寧に仕事を施したであろうネタ。そして、職人の技術を凝らして握られた、口の中で程よくほどけるシャリはどうだ。回る寿司こそが寿司であると信じてきた我が信念を揺るがすものでは無かっただろうか。

 否。おそらくあれは実は寿司ではない。もっと夢のような食べ物なのだ。レーンの上で店内をぐるぐる巡回している食べ物こそが寿司なのだ。

 回る寿司こそが寿司であるという我が信念は決して揺るいだりはしないのだ。主として、財布の中における福沢諭吉氏の在席状況に関連する事情により。

キュウリを育てる

 春先に植物の種をたくさん植えた。
 かぶ、人参、きゅうりと、いくつかのハーブを植えた。

 かぶはすくすくと育って大きくなった。すっかり食べごろを逃してしまって、土の上からちょっと顔を出した実の上の方から見慣れない茎が伸びてしまってる。
 人参も一生懸命葉を伸ばしている。
 ハーブ勢は自由気ままに伸び放題に伸びている。

 中でも頑張っているのはキュウリである。猛烈な勢いで芽を伸ばし、目を見張る速度で背が高くなり、ぼくの胸あたりまで大きくなった。ぼくは背が高い方なので、これは結構な大きさである。

 ところが、いつまで経っても一向に蔓が伸びてこない。キュウリは蔓が伸びて絡まりながら育つと聴いていたのに、うちのキュウリは太陽に向かって太くてたくましい幹とも言うべき茎をずんずんと伸ばしている。

 きっとそのうち、その茎のどこかからにょろにょろと蔓が伸びてくるんだろうと思っていたら、幹の一番てっぺんから、今までとは様子の違う固い葉っぱのようなものが寄り集まった丸いかたまりができた。

 これ、何だか見た事がある。そうだ、これはひまわりだ。

 断じていうけど、ぼくは確かに「キュウリの種」と書かれた袋から出した種を蒔いた。思いのほか大きい種だったので、ふうんと思ったんだけど、ひまわりの種ではなかった。ひまわりの種なら知っている。平べったい紡錘形のしましま模様の種だ。ひまわりの種と間違えるわけがない。
 …わけはないんだけど、やっぱりこっちも平べったい紡錘形の種だったので、ほんとうにひまわりの種じゃなかったのかと言われるとちょっと自信がない。

 今でも、ひょっとすると、茎のてっぺんにできた丸い部分から、突然、にょろにょろと蔓が伸びてくるんじゃないかと考えている。

 想像するとちょっと怖い。

シュラスコ食べたい

 ワールドカップ開催の関係で、開催国のブラジルってどんな国かという話題をよく目にするようになった。
 その中で、シュラスコが紹介されていたんだけど、あの、煉瓦のようにでかい牛肉を串に刺し、直火の遠火でじりじりと炙り、焼けたところからナイフでこそげ取って食べる姿というのは、何やら人間の奥深くにある本能的な何かをくすぐってくる。

 そもそも、「肉」「串」「火」「ナイフ」という一連のキーワードが既に反則である。
 4つのキーワードの全てが、「豪快」「野趣」「肉汁」といった方向に向いている。ときめかない訳がない。
 これが「取れたての魚を串に刺して火であぶって、箸で取り分ける料理」だったらそれほど胸はときめかない気がする。どちらかというと、「大根おろし」「醤油」「白いごはん」方向の話になる気がする。

 もっとも、ぼくはいままでシュラスコを食べたことがない。
 そういえば、一度、大学生のころ、先輩に、「ふうん。君、笹塚に住んでるの。あそこシュラスコ屋さんがあるんだよね。」と言われたのが、ぼくが人生で一番シュラスコに接近した瞬間であった。
 そして、その時、ぼくの脳裏には、理科の実験室にビーカーや試験管と一緒に並べられた三角フラスコが映っていた。

 「食べ放題なんだよね。」という先輩の言に、私は、三角フラスコに入った蛍光グリーンの液体をラッパ飲みする己の姿を想起しながら、さほど興味のなさそうな声で「へえ。」と言った。その後、先輩からシュラスコを誘われたことはない。

 この歳になるまで、私はあまりにもシュラスコに対して無関心であった。反省したい。

 というわけで、俄然としてシュラスコが食べたくなったのだが、近所にシュラスコが食べられそうなブラジル料理屋は見当たらない。
 自分で作るにしても、塊の牛肉を買うのはなかなか勇気がいる。ただの牛肉でも気が引けるのに、塊肉を買うなんて、清水の舞台からベースジャンプするくらいのテンションがないとなかなか出来ることではない。

 それでも、シュラスコ食べたい欲が収まらない私は、シュラスコにかけるモーリョだけを作ることにした。
 モーリョは、刻んだ野菜がたっぷり入ったソースだ。トマトと玉ねぎとピーマンを刻んで塩を振って、オリーブオイルと酢を混ぜた中に入れてしばらく寝かせる。簡単だ。そして、野菜たっぷりで美味しい。かけるサラダだって誰かが言ってたけど、その通りだ。

 美味しいのだけど、これが本当に、モーリョの味なのかどうかは分からない。なんせ食べたことがないのだ。
 そして、決定的なことにモーリョをかける牛肉がない。仕方がないので、サラダにドレッシングとしてかけた。
 モーリョの中にも野菜が大量に入ってるので、サラダの上にサラダをかける格好となってしまった。

 釈然としない。シュラスコ食べたい。

東京ドイツ村に行く

 東京ドイツ村って、房総半島の真ん中にあるのに名前に「東京」って付くのは何だかおかしくない?ということで、よく引き合いに出されるわけなんだけど、何度か足を運んだ経験からすると、ドイツ成分もかなり希薄なんである。

 確かに園内には、ドイツの民族衣装らしき服装のスタッフが多少いて、ドイツ国旗のカラーリングをした観覧車や屋台テントやロードコーンなんかが点在していて、ドイツ風の建物が若干数見られるんだけど、それがドイツ村のドイツらしいほぼ全てなのだ。

 ドイツ風の建物の中では、ソーセージとかドイツビールが若干数販売されているんだけど、観光地のささやかな土産店程度のものだし、レストランではソーセージ盛り合わせが食べられるんだけど、メインはバーベキューだったりして、本格的なドイツ料理が食べられると思って来たらちょっとがっかりするかもしれない。

 だいたい、ドイツカラーの屋台テントで売られているものは「ラーメン」だったり「きなこもち」だったりして、せめてそこはソーセージとかドイツビールとか出しましょうよと思ったりする。

 それでも、とても見晴らしのいい気持ちのいい丘と、よく手入れされた花畑があったり、ときどき大規模なイルミネーションを開催してたりして、それなりに頑張っているんじゃないかな、と思ったりもするのだ。

 先日、そんなドイツ村に久々に行って、パターゴルフと視界一面の芝桜を楽しんできたんだけど、まあ、あんまりそれ以上にいうこともなく、極めて平凡で、ささやかに楽しい休日だった。

 そして、「東京ドイツ村」なんて大げさな名前じゃなく、「房総花と丘の公園」あたりがふさわしいんじゃないかとぼんやり考えたりして、それじゃきっと、誰も興味をひかれないし、誰も来ないだろうな、なんて思い返したりした。

サンタから手紙が届く

 うちのこどもらは、今のところまだサンタクロースを信じているらしい。
 上の子はそろそろ高学年なんだけど、まだギリギリ信じているようだ。本人がそう言ってた。メルヘン男子である。
 まあサンタクロースを信じなくなると一年の楽しみが一つ減るわけだから、本人が信じたいと思っている限りは、信じさせてあげようと思っている。

 さて、先日、娘がサンタクロースに手紙を書いて送ったら、ほどなくして返事が届いた。スウェーデンの「サンタワールド」からだ。*1

 サンタクロースはガイジンなので、手紙の返事は全部英語である。よって、こどもには読めない。
 サンタからの手紙には、日本語で書かれた娘の手紙を「読んだ」とあるので、少なくとも彼は日本語のリーディングが出来るようなんだけど、返事はあくまでも英語である。だってサンタはガイジンだから。
 せめてスウェーデン語じゃないのがサンタの優しさだと信じたい。*2

 というわけで、翻訳して読んであげることになりました。

 「えーと、なになに。『私の住んでいるサンタワールドでは…』」
 「サンタワールド!大きく出たなあ。」
 ――大きく出たって、お前は何様だ。
 
 「あー。でもやっぱりそうなんだ。サンタワールドとかそういう場所に住んでるんだ。…続けて?」
 ――あ、そこは納得するんだ。

 「『私は人の営みについての本を読むのが好きです。本に書き込みをしながら読むと超楽しい』」
 「いや、サンタは『超』なんて言わないでしょ?」
 ――言うかもしれないじゃん。普段は「メリクリ」とか言ってるかもしれないじゃん。

 「…じゃあ、『書き込みしながら読むと楽しみが増します』」
 「ふむふむ。それで?」
 「『クリスマスにはみんながそれぞれの準備をします。犬のジプシーは張り切ってみんなのお手伝いを…』」
 「犬が手伝いって。それちょっとおかしくない!?」
 「犬だって手伝いくらいするだろう。サンタワールドなんだから。『そして、森のエルフたちはクリスマスツリーに飾りつけを…』」
 「森のエルフって何者?え、妖精なの?妖精なんている訳ないんじゃないの?」
 「サンタだってある意味妖精みたいなもんでしょうがー!!」

 ちなみに、サンタワールドは1984年にサンタクロース定住の地としてスウェーデンのモーラ市郊外に設立されたらしいです。クリスマスイブ以外は一年中サンタクロースに会えるらしいぞ。

 

*1:有体に言うと、そういうサービスがあるわけです。

*2:有体に言うと、日本語のサービスも選べます。