シン・エヴァンゲリオンを息子と見ると恥ずい
シン・エヴァンゲリオンの2回目を見てきた。
いつもだったら見たい映画は残業で遅くなった体でひとりレイトショーでしれっと見るんだけど、緊急事態宣言中でレイトショーがやってない。
初回は仕事を休んで見に行ったけどたびたびその手を使うわけにもいかない。
そうするとどうしても見に行くのは土日になってしまう。家族を置いて1人で見に行くのも気が引けるわけで、じゃあ、息子でも誘おうか、ということになった。
息子は高校生で、こないだエヴァンゲリオンは一応ぜんぶ履修済みだと言ってた。
シンエヴァ見に行こうぜとLINEで言ったら、ずいぶん長い間未読無視されたあと、たった一言「ok」とだけ返ってきた。
ーーーー行間から「父さん、いい歳してはしゃぐなよ」という言葉が見えるかのようだった。
さて、以下はネタバレになるが、シン・エヴァンゲリオンは、簡単にいえば主人公シンジの父親であるゲンドウが、全ての人類の魂をひとつに融合することを企てる話だ。
ゲンドウの計画が実現すると、個々の人格というものが存在しなくなるわけで、みんなはこれを阻止しようとする。
そして、ゲンドウが人類の魂をひとつにしようとする理由は、若くして死別した奥さんと再会したいという、とても個人的な感傷によるものだ。
要するに、シン・エヴァのストーリーを一言で言うと
「いい歳こいた親父が『若い頃に失ったものを取り戻したい』とか言い出して周りにめちゃくちゃ迷惑をかけまくるので殴りに行く話」
ということになる。
あれ?あれれ?
「いい歳した親父が」
「若い頃流行って、不本意な終わりかたをしたアニメにはしゃいで」
「仕事をサボって映画を見に行ったりしてる」
あっれーーーーーー????
シンジとゲンドウが対峙したとき、私は思わず隣の息子を見たし、息子もチラッとこちらを見た。
劇中で、シンジとゲンドウはひとしきり殴り合いをして、シンジが「父さんと話がしたい」と切り出し、対話になる。
対話といえば体がいいが、実際には父親のゲンドウが息子のシンジに「おれは小さい頃からうまくやれなかった」「俺も辛かった」「学問と音楽に引きこもってた」「俺も辛かった」「妻と出会って楽しかったのに死んじゃった」「俺も辛かった」と愚痴愚痴こぼし、シンジが「うんうん分かるよ。辛かったね。大変だったね」となだめる感じだ。どちらが大人なのか分からない。
そしてひとしきりシンジに話を聞いてもらった父親ゲンドウは、なんだかすっごくスッキリした顔になり「お前も大人になったんだな」とひとりごちて去ってゆく。
いや成長できてないのは!子供のままなのは!お前やろがい!!という観客のツッコミを一身に受けながら。
恥ずい!これ実の息子の前で見るのはとても恥ずい!!
映画が終わり我々は一言も喋らないで映画館を後にした。息子がどう思ったのかは知らない。
しかしゲンドウは幸せ者ですよね。息子に散々愚痴を聞いてもらったあげくよしよししてもらえるんだから。いいなあ。
まあ、うちの息子は絶対嫌だろうけどねーーー。
シン・エヴァはエヴァを終わらせることができたのか
シン・エヴァンゲリオン劇場版を見てきたので、取り急ぎの感想をネタバレありで書きます。
結論から言えば、シン・エヴァンゲリオン劇場版は、これまでの作品で投げ出されたままだったありとあらゆる物語の断片に結末をつけるような映画だった。
ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」で、バスチアンがファンタージエンでの冒険の中、語り切れない物語の断片ををいくつも作ってしまい(「これは別の物語、いつかまた、別のときに話すとしよう」)、最後に現実世界に戻るときにちゃんと終わらせてから帰れって怒られる話があったでしょう?あったんだよ。
シン・エヴァは、そういった「語り切らなかった物語」を、思いつく限りすべて語ってしまったような映画だった。
「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」というコピーに間違いはなかった。今度こそ、エヴァンゲリオンは終わることができたのだ。
例えば、冒頭の華々しい戦闘シーンからのオープニングタイトルが開けて、真っ赤に染まった世界を放浪するシンジたちは、ニアサードインパクトで生き残った人々が生活する避難地域のような場所にたどり着く。
そこで再会するのが、大人になった鈴原トウジ、相田ケンスケ、桐木ヒカリの同級生たちだ。
旧作では、シンジはトウジやケンスケとの喧嘩を経てつるむようになり、一時期は友達に囲まれたシンジが朗らかな姿を見せることもあったものの、使徒に寄生されたエヴァのエントリープラグを暴走したエヴァがパイロットのトウジごと破壊するというショッキングなシーンがあり、その後、いつの間にか同級生たちは物語からフェイドアウトしていた。
そこでは、シンジが意図せずトウジを傷つけたことの「落とし前」をどうつけたのか、3人はまた仲良しに戻れたのか、そういったことはぜんぶ有耶無耶になったまま同級生たちはひっそりと物語から消えてしまった。
新劇場版では、使徒に寄生されたエヴァに搭乗したのはアスカだったし、「Q」ではトウジやケンスケの出番は全くなかったもんだから、破からQに至る唐突な作中時間の経過に置いて行かれた形でこのままフェイドアウトかと思っていた。
そのトウジとケンスケが、成長した大人として再登場したのだ。
しかも、旧作でお互いに惹かれている様子があったトウジとヒカリは結婚して子供もできている。ケンスケはビデオカメラを武器に活躍してる。大人になった同級生たちは、子供のまま時間が止まったシンジを迎え入れ、変わらない友情をもって接してくれる。旧作以来描かれなかった同級生との物語に、ちゃんと続きと結末が描かれたのだ。
ついでに、旧作で同級生たちと一緒にフェイドアウトしたペンペンも、近くの湖で繁殖しているという念の入れようだ。
恋人関係にあったミサトと加地の物語にも結末が与えられた。
こちらは、加地はニアサードインパクトで皆を助けるために亡くなり、その時、ミサトのお腹の中にいた子供が大きくなっている、ミサトは自分の子よりも人類を守ることを選び、母親であることを告げられないというほろ苦い結末だ。
ミサトといえば、「破」のラストでさんざんシンジを煽ったくせに、時間が経過した「Q」でやたら冷たい態度を取っていたあれは何だったのかというのも解決した。
ミサトは我々が思っていた以上に大人だったし、保護者をやってたのだ。
シンジとゲンドウは、拳(エヴァ)と拳(エヴァ)で語り合い、お茶の間のテーブルを(文字通りの意味で)ひっくり返した後、対話をして、和解に至る。エヴァの物語が始まる前の、ゲンドウとユイの物語の結末というおまけもつけたうえでだ。
冬月の物語、アスカの物語、レイの物語も、それぞれに結末が語られた。終始謎めいたキャラクターだったカヲルくんの物語にも結末がついたのには驚いた。
極めつけはテレビシリーズのタイトル「新世紀エヴァンゲリオン」の「新世紀」の部分の意味が語られたことだ。
そんなの、当時のロボットアニメのタイトルのフォーマットであった「漢字+カタカナ」(「絶対無敵ライジンオー」や「勇者特急マイトガイン」など)に倣っただけでしょう、と思っていたのに、最後の最後で明確な意味が与えられたのだ。
そんなところまで回収されると病的ですらある。
劇中でシンジが「自分のことは自分で落とし前を付ける」と決意するが、どう考えても庵野監督のモノローグそのものだ。
「果てしない物語」ではバスチアンが作り、結末が語られなかった様々な物語は、友情の下、アトレーユがバスチアンから引き取った。
これに対して、庵野監督は自分で結末をつけた。庵野監督は本当にえらかった。
すべての物語に決着をつけたシンジは、これまで登場したすべてのエヴァンゲリオンを(1体を除き)破壊し、「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」というコピーの意味を回収する。
シンジに破壊されなかった最後のエヴァに搭乗していたのが、旧作に登場しなかったキャラクターのマリである。
25年間決着がつかなかったエヴァンゲリオンの最後のシーンは、一新された世界で、大人になったシンジがマリと一緒に駆け出すシーンだった。
旧作に登場しないマリの役割は、我々をエヴァンゲリオンという物語から解き放ち、新しい物語に飛び込ませることにあったのだと思う。
そう、エヴァンゲリオンという物語の呪いは、長い長い旅の末にやっと解けたんだね。
庵野監督に、ありがとう。
エヴァンゲリオンに、さようなら。
そして旧作のラストで2回も悶え苦しんだおれたちに、おめでとう。
クリスタルガイザーが売ってない
娘が唐突に「明日クリスタルガイザーの空きボトルが要るんだった」と言い出した。 既に深夜10時を回ってからの話だし、クリスタルガイザー限定の話でもある。
よく考えると唐突でもなかった。1週間も前に、今度理科の実験で使うので買う必要があるという話は聞いていた。思いだしてみると
「今度クリスタルガイザーのペットボトルを持ってかなきゃいけないんだけど」
「なんでクリスタルガイザー限定なんだよ」
「何か、実験にちょうどいい大きさなんだって」
「いやそれ実験内容のほうをペットボトルに合わせろよ」
……などという話を確かにした。そして忘れた。私も、妻も、娘自身も、誰も彼も。
そして前日の深夜になって突然思い出した。せめて思い出してくれないほうがマシだった。私の心の平穏のためには。
仕方なく近所のコンビニに走った。チャリで。
…なかった。
少し向こうのコンビニに行った。チャリで。
……なかった。
だいぶ先のコンビニに行った。チャリで。
………なかった。
この辺りには深夜にクリスタルガイザーを買いたくなるようなオシャレセレブはおらんのかと思った。まあ、おらんのだろう。
こうなってくると私も意地になってくる。
近所のスーパーは営業時間外で全滅だ。でもまだドンキホーテがある。車でちょっと走った街道沿いにドンキがある。行こう。
深夜のドンキは、雑然としてて、やけに明るい曲がかかってて、いかにも地元の若者っぽい客がパラパラといて、ちょっとわくわくする。
思い出せば、出張先のホテルで夜飲むお酒を買いにゆくのは決まってドンキだった。普通のスーパーであまり見かけない感じのお菓子やつまみが置いてあるのが嬉しかった。
その昔、新入社員の頃にも独身寮の近くにドンキがあって、何もすることがない週末の夜によく店内を冷やかしたものだ。
やはり暇を持て余した同期が来てて、おう、とか話をして、お酒と普通のスーパーであまり見かけない感じのお菓子やつまみを買ったりして、そのまま同期の部屋に押しかけてそいつがPCに秘蔵していた動画コレクションを見ながら酒を飲んだりした。
私はドンキを満喫した。店内を一通り冷やかして、普通のスーパーであまり見かけない感じのランチョンミートと定価の半額くらいの味覇(ウェイパー)を買った。正直楽しかった。
クリスタルガイザーは売ってなかった。
ドンキはオシャレセレブが深夜にクリスタルガイザーを求めに行く場所じゃないのだろう。
私は「クリスタルガイザー売ってナイザー」とLINEして帰宅した。
「ヤスウリノウェイパーならあった」と言おうかとも思ったけど、特に既読もつかなかったのでやめておいた。
終末まで実際にどれだけあるのか
米国の科学雑誌「原子力科学者会報(Bulletin of the Atomic Scientists)」は、その表紙に世界終末時計を掲載し、年に1度、指している時間を更新している。
終末時計は文字通り、終末までの残り時間がどれくらいなのかを表している。もとは第二次大戦で原子力爆弾が実際に使用されたことなどを受け、核の問題について世の中に警鐘を促すために考案されたものだそうだ。
2021年現在、時計の針は終末である0時にこれまで最も近づいた午後11時58分20秒、つまり「残り100秒」を指しているとのこと。
それでは、「残り100秒」というのは実際にはどれくらいの時間をいうのだろうか。
我々には終末まで、どれだけの猶予が残されているのだろう?
まず、終末時計の時間が何を表しているのかを考える。
先ほども書いたとおり、時計の針が午前0時を指すときが終末だ。つまり、その時に地球が終焉を迎えるということなのだろう。
そうすると、終末時計は地球の始まりから終わりまでを1日ととらえたものと考えるのが自然なのではないだろうか。地球が誕生してから現在までの時間(約46億年)に、現在から終末までの時間(「x年」とする)を加えた時間を24時間に例えているのだ。
そして、この場合の「x年」に相当する時間が、終末時計上の残り時間である「100秒」(2021年現在)ということなのだろう。
この関係を表すと次のようになる。
(4,600,000,000+x)年:x年 = 86,400秒*1:100秒
ここでxを求めると次の通りだ。
86,400x=100(4,600,000,000+x)
86,400x=460,000,000,000+100x
(86,400-100)x=460,000,000,000
x=460,000,000,000/86,300
x=5,330,243
つまり、現在から終末までの時間は約533万年ということだ。結構あるじゃん、良かったね!
いや待って欲しい。「終末」が地球そのものの終焉ではなく、人類という種の終焉を表してる可能性もある。人類がいくら核を使っても、地球が木っ端微塵になることはない。たぶん。
そうだとするとどうなるのだろうか?
現生人類、ホモ・サピエンスの誕生を20万年前として*2、そこから1日が始まるとすると、上記の式は次の通りになる。
(200,000+x)年:x年 = 86,400秒*:100秒
x=20,000,000/86,300
x=231.7
これでも人類はあと232年くらいは存続可能なようだ。人類がんばれ!
*1:24時間を秒で表した値
*2:NHK スペシャル |人類誕生 (3 回シリーズ ) 「およそ20万年前に誕生した、私たちホモ・サピエンス」
古本屋で小泉今日子のサイン本を買った話
私の家には小泉今日子のサイン本がある。それも小泉今日子にまったく関係のなさそうな絵本だ。
15年くらい前の、確か暖かくて晴れた日だったと記憶している。
当時は、長男が生まれてまだ間もない時期で、巣鴨に住んでいて、よく池袋に遊びに行っていた。その本は、サンシャイン通りから少し脇に入ったところの古本屋の店頭のワゴンに置いてあった。「おふろ」という絵本だ。
この本は私の実家にあって、小さいころよく読んだ本だ。
主人公とお父さんがお母さんに急かされてお風呂に入るという単純な内容なのだけど、ページに切れ込みが入っていて、ページの上下が別々にめくれるという仕掛け絵本になっている。お風呂に入るときと出るときに、上半身と下半身の衣服を1枚ずつ脱がしたり、逆にパジャマを着せたりするといった趣向だ。
ページをめくったあと、お父さんが後ろ手にお酒を隠し持ってることが分かったりして、気の利いた遊び心があるのも楽しい。
兄弟で何度も読んで、遊んで、今やページはボロボロに破れて取れかかってる。文字通り擦り切れるくらい読んだのだ。
それが古本屋のワゴンに何気なく置いてあった。ボロボロになった実家のほんと違ってかなり保存状態も良かった。
うわあ、これうちにあったなあ、よく読んだなあと思いながら手に取った。表紙をめくったすぐ裏に、落書きみたいなものが目についた。
そこにはピンクのクレヨンらしき字で、日付とサインのようなものが書いてあり、サインのほうはよく見ると「kyoko2izumi」と書いてあるのがわかった。
kyoko2izumi……キョーコ2イズミ……キョー【ココ】イズミ……小泉今日子
私はその本をレジに持って行った。
この話はこれでおしまいだ。
それが本当に小泉今日子のサインなのかも分からないし、本物だとして、なぜ「おふろ」というおおよそ無関係そうな本の表紙の裏という不可解な場所に、それもクレヨンで書かれているのかも分からない。
調べて分かったのは、小泉今日子が「kyoko2izumi」というサインを使っていた時期があったのはどうやら本当らしいということと、一見すると字体も似てるらしい、ということだ。
そして、それが贋物だとしていかにも本物っぽいサインを、絵本の裏表紙というヘンテコな場所に、日付入りで書いて、その本を丁寧に取っておくかなあ……という気もする。だから、これは本物だと思うことにしている。そのほうがちょっと気持ちが楽しいからだ。
その後、長男に続いて、長女、次男と都合3人の子供ができて、それぞれ「おふろ」を読んだ。最初は大人の本棚にしまっていたが、結局、子供たちの絵本の山の一部になってしまった。自分が好きだった本は子供たちにも読ませたかったし、何より私は別に小泉今日子のファンではないからだ。
残念なことのか、幸いなことのか、私の子供たちはボロボロになるまで「おふろ」を読まなかったので、小泉今日子のサインはちょっとだけくたびれているものの、今でもきちんと残っている。
ヨーグルトソースのマントゥを作る
トルコに行ったときに、ヨーグルトソースがかかったケバブを食べたことがある。
日本ではヨーグルトにはフルーツやはちみつなんかの甘い味付けをすることが一般的だと思うので、塩気のあるヨーグルトソースを肉に合わせるのはなんだか意外な感じがあるのだけど、スパイスの効いたケバブにヨーグルトソースはなかなか合う。
決して派手さや華やかさがあるわけではないし、癖になる味というのともちょっと違うのだけど、スパイスや塩と脂といった強い味付けをうまくヨーグルトで相殺していて、ちょっと独特な趣がある。あまり日本では食べることのない風味だ。
そんな話をしていたら、急にヨーグルトソースのやつが食べたくなったので作ることにした。トルコの餃子「マントゥ」だ。
まず、小麦粉に塩と水と卵でこねて、しばらく寝かす。
その間に牛ひき肉と玉ねぎのみじん切りに、クミンパウダーをたっぷり混ぜてこねて餡を作る。
ヨーグルトには塩とニンニクを混ぜておく。バター、トマトケチャップ(本当は発酵したトマトペーストを使うらしいんだけどそんなものはない)に赤唐辛子をフライパンにかけて溶かしておく。
寝かしておいた生地は平たく伸ばし、3センチ角に切り分け、そこに餡を少しずつのせて包む。
3センチ角という小ぶりのの生地には餃子を作るときの3分の1くらいの量の餡しか包めない。つまり、ちまちまちまちまちまちましたやつを大量に包まなければならない。単純計算で餃子の3倍包まなければならない。めちゃくちゃ面倒くさい。
大量のマントゥを茹であげ、ヨーグルトソースとバターソースをかけると出来上がり。難しくはないけどけっこう手間がかかる。
初めて作ったのでちゃんとできてるのか不安だったんだけど、一口食べて笑ってしまった。クミンのスパーシーな香りと、ヨーグルトのさわやかな風味と酸味、それにバターソースのこってりとした味わいが複雑に絡み合って、全体として記憶の中にあるトルコの味なのだ。うまい。
マントゥはお祝い事があった時の料理らしいのだけど、どう考えても面倒くさいからに違いない。
そう思って調べたら、新婦が新郎の母のために作る料理で、一つの粒が小さければ小さいほど新婦は評価される、という情報が出てきた。嫁いびりかーー。
ゼーレの人はパンツ一丁で会議に臨んでいる
リモートワークの人とSkypeで打ち合わせをしたことがある。
私は職場にいないと一切の仕事ができない性格で、休日に小一時間作業をするだけでも職場に行ったりするほうなので、在宅で仕事ができる人は尊敬してしまう。自宅の緩み切った雰囲気で仕事をするなんてことは考えられない。
Skype会議をしたリモートワークの人の部屋はそれなりにきちんと片付いていて、うしろに資料の棚なんかがあって、そして、彼はワイシャツにネクタイをしていた。とてもパリッとしていた。「在宅で仕事ができる人は身なりから違うな」なんて思ったりした。
彼としばらく議論をしていて、「ところでアレはどうなってますか?」なんて感じの質問をしたときだ。
彼は「ちょっと別の部屋から資料を取ってきますね」といっておもむろに立ち上がり部屋を出て行った。その時、初めてデスクの下に隠れていた彼の下半身がカメラに映しだされた。
パンツ一丁だった。彼がドアの向こうに去ったあと、私はひとしきり笑った。
別の日のこと、たまに一緒に仕事をしているコンサルタントの人と飲みに行った時のことだ。2人とも大手を退職して独立した人で、自宅や小さなオフィスで仕事をしている。
リモートワークがどうのこうのという話になったとき、ふと、パンツ一丁事件のことを思い出して「こないだのことなんですけどね…」と話し始めた。「すべらない話」のつもりだった。
私が、「それで、その人が立ち上がったんですけど…」といった瞬間、2人は声を上げてこう言ったのだ。「パンツ一丁だったんでしょ?」。
Skype会議をしてるリモートワーカーの下半身はパンツ一丁である。その日、私は世界の常識を一つ覚えた。
ここで唐突にエヴァンゲリオンの話になる。
あれにゼーレという謎の組織が出てきて、主人公側の組織と何やら陰謀めいた会議をするシーンがある。
ゼーレ側の出席者は「SOUND ONLY」と書かれた棺桶みたいな黒い箱から音声だけで会議に出席している。たいがい、主人公側の組織の誰かを吊るし上げたり、誰かをクビにすることを話し合ったりしている。ゼーレが何なのかは最後まであまり語られないし、なんで「SOUND ONLY」と書かれた箱で会議してるのかもよく分からない。
あれも一つのリモートワークだ、という話を聞いた。
なるほど、ゼーレは世界的な組織みたいなので、会議の出席者は世界中に散らばってるのだろう。リモートで会議を設定するのが自然だ。
例の棺桶みたいな「SOUND ONLY」の箱は、たぶんプロジェクタなのだろう。もともと、あそこには出席者の映像が表示されることになっていたが、何らかの事情で映像が流れないのだ。きっと機器の不調とかだ。回線が足りてないのかもしれない。
そうすると当然のことながら、ゼーレの人たちはパンツ一丁で例のつるし上げ会議に出席していることになる。
彼らは自宅で緩み切った格好で、画面の向こうの冬月に向かって「我々は新たな神を作るつもりはないのだ…」などと説教を垂れてるのだ。
たまにパソコンの前を猫が横切っているし、内心「新たな神は猫でじゅうぶんだな」とか考えている。
中には、画面が映らないことをいいことに、変顔チャレンジをしてる人もいる。
画面の向こうのゲンドウに「最近の君の行動は目に余るものがあるな」などと言いながら、鼻の下を思いきり伸ばしたより目のチンパンジーみたいな顔を作って「こんな顔してるのにゲンドウったら気付いてないでやんの」とひとりクスクス笑ってたりする。
パンツ一丁どころか、全裸になってる人もいる。
「なぜロンギヌスの槍を使用した…回収は不可能だ」などと言ってるが、自分の股間のロンギヌスをしまったほうがいい。
そして、あるとき突然、回線は復活する。
「SOUND ONLY」と表示されていた箱に、突然、出席者の映像が表示される。ある者はパンツ一丁で、ある者は猫を愛でながら、ある者は全裸で会議に臨んでいたことが白日の下に晒される。あれだけ思わせぶりなことを言っていたのにこの体たらくである。
そして、それぞれの正体が露わになったそこには、心の壁は存在しなくなる。「なあんだ。あいつも馬鹿なんだな」みたいなやつだ。ついに人類補完計画が実現するのだ。
おめでとう。おめでとう。