鼻猫亭

毎日のこととかぼんやり考えたことなど

傘を差すこと

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 傘が嫌いなので多少の雨では傘を差さない。

 

 カバンの中には一応、折りたたみ傘が常備されているが、あまり使わない。

 折りたたみ傘を使うのは、ほとんどの場合が、目的地に着いたときに衣服が濡れていると具合が悪い場合、もしくは同行者がいる場合だ。

 どちらの場合も、「雨が降ってるのに傘を差さないって何なのこの人」と思われないために傘を差すようなものだ。つまり、雨に濡れないためではなく、社会的立場を守るために傘を差していると言っても過言ではない。

 

 なぜそんなに傘が嫌いかというと、傘を差すと傘が濡れるからにほかならない。

 そんなこと当り前だろう。お前は何を言ってるのだ。と言いそうになった人は、まず聞いて欲しい。

 あなたの前に傘が2本あるとする。同じ傘だが、一方は濡れており、もう一方は濡れていない。どちらかを選べと言われたら、どちらを選ぶだろうか。

 ほとんどの人は、濡れていない傘のほうを選ぶだろう。つまりはそういうことだ。本当はみんな傘を差したくないのだ。

 中にはもしかしたら「自分は濡れている傘が好きだ。濡れている傘には何とも言えないエロスがある。」という向きもあるかもしれない。そういう人は思う存分傘を差して、思う存分傘を濡らし、思う存分背徳的な快楽に酔いしれればよい。

 濡れた傘は煩わしい。これは間違いのないことだ。濡れた傘は油断していると私の衣服を濡らしてくる。乾いた傘が私の衣服を濡らすことはない。

 

 そもそも、雨に濡れるということは、傘を差してまで回避しなければならないほど大変なことだろうか。

 考えて欲しい。濡れた衣服はいつか必ず乾く。結局、放っておけば乾くような雨を、傘などといったものを使ってわざわざ避ける理由はないはずだ。

 

 以上、私は傘が嫌いだし、これからもあまり傘を差さないだろうが許して貰いたい。

 雨の中をしっかり濡れながらぼんやり歩いてる人を見ても、ふうん、と思ってくれると大変助かる。

値札なんてものが重要でなかった話

 トルコではよくぼったくられた。

 いや、もしかするとぼったくられたというのは不適切なのかもしれない。トルコではお金の考え方が日本とは少し違うんだろう。

 

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 例えば、タクシーに乗った時のこと。

 ガイドブックなんかには必ず「タクシーではメーターを回すよう指示すること。運転手がメーターを回さない場合には高額な運賃を取られる可能性がある。」と書かれている。実際には「メーターを回せ」ということは難しいんじゃないかという気がする。何せ、私の乗ったタクシーにはメーターがどこにも見当たらない。

 そして行き先を告げてタクシーに乗り込むと、有無を言わせず値段交渉が始まる。

 運転手は片言の英語で「そこね。大きく回り込まなければならないのね。行けるけど遠いよ。」なんて言い始め、指先で丸をつくって「トゥレルリリラ(trerurilira)」と言う。巻き舌が入りまくって何言ってんのか分からない。

 こちらがようやく「twenty lira」(20リラ)って言いたいんだなと理解したところで、「ok, trerurii and five lira」と告げて走り出す。メーターを回せなんて言う暇もないし、突然の5リラの値上がりである。

 「ああ、やられたなあ」と思いながら走ってみると、特に大回りをすることもない様子で実にスムーズに数分で到着して、再度「やられたなあ」と思う。正確なところは分からないけど、20リラでも通常料金の倍以上なんだと思う。

 悔しいので「最初20リラといったはずだ。25リラには同意してない。」と言って、20リラ札を出したら、相手は多少渋ったあとで、「25リラが正規の値段だ。まあいい。」といって解放してくれた。正規の値段とはいったい何なのか。

 

 

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 例えば、公園のベンチで休んでいた時のこと。

 イスとバケツと大きなブラシを持ったおじさんが目の前を通り過ぎて、バケツの中からブラシがぽとりと落っこちた。バケツの人はそのまま気付かないで行ってしまおうとする。私は当然、ブラシを拾ってあげる。

 そうすると、おじさんは少し驚いた顔でこちらを向いて、「ありがとう。本当にありがとう。あなたの親切に心から感謝する。握手をしてくれ。マイフレンド」といって私の手を握り、そして立ち去った。いや、立ち去らなかった。

 

 おじさんは数歩進んだところで、やおら私の方を振り返り、「そうだ。あなたとの友情の証に靴を磨かせてくれ。」と言ってきた。

 私としては、「はっはーん。これは結構な額を請求されるパターンやな。」と思い「要らない。大丈夫だ。」と言って断ったのだが、おじさんは「マイフレンド。私はあなたの親切に何かをしてあげたい。お金は取らない。」と言って聞かない。私がもたもたしてると(私もそんなに英語を話せるほうじゃない)、おじさんは「マイフレンド」とか繰り返しながら半ば強引に磨き始めた。

 おじさんは私が拾ってあげたブラシで靴の汚れを落とし、何かの薬品を私の靴に塗り付けこすりながらしきりに話しかけてくる。

 

 「私はアクサライから出稼ぎに来てるんだ」

 「マイフレンド、あそこにいる子供は君の家族かい?何歳だい?」

 「私にも4人の小さな子供がいるんだマイフレンド」

 「マイフレンド…お金がいるんだよ。マイフレンド…」

 

 そして、靴磨きを終わらせると

 

 「20リラでどうかな」

 

 ぜったいそう来ると思った。少なくとも家族の話を始めたあたりから確信してた。

 私が、「あなたはお金は要らないと言ったし、いま100リラ札しか持ってないので払えない」というと、靴磨きおじさんは「マイフレンド、私には4人も子供がいるんだ。」と迫る。

 まあ、イスラムには喜捨の教えがあるからな…と思いなおし、せめて財布の中の小銭を渡そうとすると「これはリラじゃない、セントだ。20リラが必要なんだ」といって受け取らない。

 「100リラ札しかないので払えない」と財布を見せると「お釣りを渡すから大丈夫」という。

 私もだんだん面倒くさくなってきたので、「10リラ、10リラなら払うので釣りをくれ」と言うと、おじさんは自分の財布を取り出し、一枚一枚「10リラ…10リラ…20リラ…20リラ…5リラ」と数え、私が差し出す100リラ札を受け取り、65リラをわたそうとした。ちょっと待て。ちゃんと一緒に数えたやろ?思いっきり値上がっとるわ。

 結局、お釣りを用意できなかったおじさんには、小銭入れにあった30セントくらいを渡して引き下がって貰うことにした。

 おじさんは悲しそうな顔でもう一度「ありがとう、マイフレンド」といって立ち去った。

 

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 その他、カフェでメニューを見ないでコーヒーとお茶を頼んだらやたら高い請求をされたり、レストランでオーダーしてないサラダがしっかり請求されて他の店ではチャージされない謎のチャージが上乗せされたり、露店でアイスを買ったらレストランの3倍くらいの値段を言われたりした。

 ぼったくられまいとすると、一瞬たりとも気が抜けない。

 そもそも商品に値札がないことが多い。まず最初に値段を確認すること、そして強気で交渉することが大事だ。そしてそれはいちいち疲れることだ。

 

 「チップだと思えばいいんじゃないの。満足すれば多めに払えばいいのよ。」

 妻は言った。

 

 まあそうかもしれない。タクシーだって日本に比べると遥かに格安だし、出稼ぎ靴磨きおじさんだって靴磨きとトルコとの友情に10リラくらいならあげても良かったし、コーヒーとお茶はうまかったし、やたら高いアイスクリーム屋は伝統のパフォーマンス*1で散々笑わせてくれたので払っても惜しくないだろう。謎のチャージは納得いかないけど。

 値札や正規の価格なんてそれほど重要じゃないのだ。その値段に納得がいくかどうかが全てなのだろう。

 

 旅行の終わりに空港で、余ったお金で16リラのアイスを買った。市内の価格からするとかなりのぼったくり値段だが、リラを余らせたところで仕方ない。

 私が20リラ札を出すと、店員が「1リラを持ってないかな?」と聞いてきた。

 ごめん、持ってない、と私が言うと、店員はにっこり笑って「じゃあ1リラは値引だ」といって5リラ札を渡してきた。

 

 つまるところ、値札なんてそれほど重要じゃないのだ。たぶん。

 

*1:トルコのアイス屋さんには、アイスの粘度が高いことを利用したからかい技がある:https://www.youtube.com/watch?v=9jajW0gHUyA

トルコでビールを買う話

トルコに行ってきた。

 

何でこんな中途半端な時期にトルコなのかというと、説明が長くなるのだが、まあ色んなことが一区切りしたので久しぶりに家族旅行でも行こうかといったところである。

盆暮れ正月でもないのに家族旅行して、しかも温泉とかでなくいきなりトルコに行くあたり、我ながらなかなか素晴らしい。

 

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結論としてトルコ旅行は素晴らしかった。人生初のイスラム圏だったし、イスラム文化の豊かさの片鱗に触れ、少なからぬカルチャーショックを受けたことは大きな糧になったと思う。多少、無理して仕事を休んで良かった。

 

正直なところ、行く前のトルコはなんちゃってイスラム圏だと思ってた。職場近所のトルコレストランや、屋台のケバブ屋は普通にビールを出してるし、何ならトルコ特産の「ラク」という蒸留酒もある。水で割ると白く濁る独特のやつだ。アニスの強烈な香りがして慣れないと実に飲みにくい。アルコール度数も高い。あんな強烈な個性を持った酒を生み出した国はさぞかし呑兵衛ばかりいるんだろうと勝手に思ってた。

 

トルコが案外ちゃんとしたイスラム圏だというのは、午前5時にトルコのホテルに着いてすぐに分かった。

泊まったホテルはイスタンブールの旧市街のど真ん中にあって、近所に3つ立派なドームと塔を持ったモスクがある。そのモスクが夜も明けきらない時間に、それぞれのスピーカーから、ものすごい大音声でアラーへの祈りを呼びかける朗々とした詩を流すのだ。

これが「アザーン」と呼ばれるものだというのは予備知識として知っていた。しかし、こんな未明の時間帯に、これだけの大音声で流すとは知らなかった。

日本の田舎にいくと、たまに早朝に拡声器でラジオ体操や役所からのお知らせを流すところがあるが、あれよりも早い時間帯に、あれよりも大音声で、市内のあちこちから微妙な時間差をもって次々と流れてくる。これが毎日5回繰り返される。

最初は早朝に叩き起こされることに辟易していた。しかしこれも3日も経つと当たり前の光景になってくる。早朝叩き起こされるならば早く寝ればいいわけだし、田舎の拡声器より風情がある。何より時間を知るのに便利だ。夜のアザーンが鳴ったから寝るか、といった具合である。

 

さて、お酒の話だ。

トルコがなんちゃってイスラム圏だと思っていた私は、市内のどこでも普通にビールが買えると思ってた。

甘かった。

ホテルの近くにはコンビニくらいの規模の個人商店がいくつもあり、ちょっとしたスーパーも数件ある。コンビニ的な商店にはお菓子もドリンクもパンも売ってる。スーパーには日用雑貨や野菜、加工肉、チーズが並んでる。

しかし、そのどこにもアルコールは並んでない。

 

私はビールを求めて片っ端から商店とスーパーを巡ったのだが、どこにも置いてない。

代わりにやたらとエナジードリンクが置いてある。ひどい場合は冷蔵棚まるごとモンスターエナジーだったりする。

たぶんトルコ人はカフェインでハイになるのだ。しかし、日本人である私にとってエナジードリンクは寝不足で疲れきったなか仕事するイメージしかない。せっかくの休暇にエナジードリンクは勘弁願いたい。

 

そんなことを思いながらイスタンブールの下町を巡っていた私だが、ついに、とても狭く、薄暗く、ひっそりとした佇まいのお店の奥にビールを発見したのだ。エウレーカ。ついにやったぜ。

 

私はいそいそと棚からビールを取り出し、レジに持っていった。

薄暗い店の薄暗い目をした店員は、レジに置かれたビールを一瞥して、私の頭からつま先までジロリと眺めて、無言で顎をしゃくり「ほら。わかるだろ?」という仕草をした。

私が恐る恐る財布から10トルコリラ札を取り出しレジに置くと、薄暗い目をした店員は無言でそれを受け取り、だまって2トルコリラをカウンターに置いた。

 

どう考えてもヤバイ取引だ。

 

そして店員は中身が見えない真っ黒なレジ袋を取り出し、ビール1本を厳重にくるみ、私に渡してきた。終始無言で。薄暗い目で。

 

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私はこの「中身の見えない黒いレジ袋」に強烈な既視感を覚えた。

知ってるのだ。

日本でも、特定の業態のお店が、同じように薄暗い店内で、薄暗い目をした店員が、真っ黒いレジ袋に包んで商品を渡すことを知ってるのだ。

 

そう。

 

エロビデオ屋である。

 

私は黒いレジ袋に包まれた商品をそそくさとカバンに入れ「トルコのビールはエロビデオだったんだなぁ…」と思いながらホテルに戻るのであった。

 

 

ノンアルコールビールが美味くないけど美味い話

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昨年末からやたら仕事に追われてて年末年始なんてほぼ職場に行ってたし夜の帰宅時間も遅くなったしそれなりにくたびれるし1日の終わりにはまあちょっと飲もうかってなるわけで気付いたら毎日何かしらお酒を飲んでた。

これはどうも良くないぞと思ってお酒を控えるようにしてるんだけど、仕事に追われるのは相変わらずだしくたびれるし仕事が終わったあとはやっぱり何となくお酒を飲みたくなる。そんなときにノンアルコールのビールがあるじゃない、これでいいんじゃない、と思って買ったりするわけだ。

 

それで、ノンアルコールのビールが美味しいのかというと、これがどれを買ってもたいがい美味しくない。少なくとも仕事帰りのコンビニで手軽に買えるやつは全部美味しくない。ビールから美味しい要素の8割くらいを除いたような感じだ。「別に美味しくないなあ」と思いながら飲み、そしてビールを飲んだという何とない満足感を得る。

 

これはいったいぜんたい何なのかと考えてみるに、きっとノンアルコールビール正真正銘美味しくないのだけどビールのような何かを体内に取り入れることにより「ビールがうまい」「お酒で気分が良い」という過去の記憶を脳内から無理やり取り出してるのだろうという結論に至った。つまり、自分の頭を自分で騙してるということになる。

 

だいたいアルコールを摂取して気分が良くなること自体、自分の頭を騙してるようなものなんだけど、そうするとノンアルコールビールはさらに頭が騙されてる状態だと頭に錯覚させてるということになる。

 

つまりノンアルコールビールはハイコンテクストなドラッグなのだななどと考えながら俺は酒でない酒を飲み、酔ってない頭で酔うのである。

 

朝食バイキングでカレーを食べる話

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 出張で泊まるビジネスホテルの朝食バイキングはすこし興奮する。

 

 なんせ朝からいきなり食べ放題である。

 起きてすぐの時間は胃腸も活発に動いていない。朝食は軽めにとる人は多いだろうし、おなかにあまり負担のかからないものを食べるように気を遣ってる人も多いだろう。それなのにビジネスホテルは、朝から「好きなだけ食べていいよ」と言ってくるのだ。

 だいたい、一泊するくらいだから朝食の後には大事な仕事が控えている。「今日一日が勝負」という場合もある。腹いっぱいになってる場合ではない。それなのに「好きなだけ食べていいよ」と言ってくるのだ。利用者に「仕事を取るか、満腹を取るか」の苦渋の選択を迫るのである。

 結局、こちらとしては「満腹になることを極力避けつつ」「可能な限り満足する形で」食事をとるという二律背反に晒されることになる。朝からとんだチキンレースを迫るのがビジネスホテルの朝食バイキングなのだ。

 

 私は今まで、出張先のビジネスホテルの朝食がバイキング方式であったとしても、内心の喜びをおし隠し、努めて冷静に、決して羽目を外すことなく、できるだけ控えめに、ご飯とみそ汁と、数品のおかずを取って終わらせるようにしていた。

 たまにその地方の名物なんかが並んでおり「あ、これ美味しいな。もうちょっと欲しいな。」と思っても、おかわりを取りに行くのは恥だと自分に言い聞かせて耐えていた。

 なにせ周囲は意識高きビジネスパーソンの猛者どもである。

 ひとたびおかわりを取りに行こうものなら「自己管理が出来ていない軟弱者」などと烙印を押され、二度とそのホテルの敷居をまたぐに能わない落伍者と見做されても仕方がない。ビジネスの世界は厳しいのだ。

 

 そんなわけなので、私は今まで、朝食バイキングのカレーに手を出したことはなかった。

 朝食バイキングにはなぜか高確率でカレーがある。わざわざ「当ホテルの名物」と書いてあったりすることもある。

 しかし、「朝からカレー」はいくらなんでもはしゃぎ過ぎだ。また、うっかり食べこぼした場合、その日の仕事を台無しにしかねない。なにせこちらは意識髙いビジネスパーソンである。食事中も一分一秒を惜しまず情報収集をしたり、Twitterで「いま起きた」などの情報発信をしたり、スマホゲームの行動力を消化したりしているのだ。食べこぼしリスクは家族で食事を取っている場合と比べて段違いに高い。

 

 しかし、今回の出張はいつもと少し違った。同じホテルに合計4泊もしたのである。

 

 1泊目と2泊目の朝はまずまず普通に食事をしたのだが、3泊目あたりで「だいたい朝ごはんのパターン見えたな」と思うようになった。実際、3日目で気付いたのだが、このホテルは1日おきに同じメニューを出してるようだ。

 

 「すこし変化が欲しい。」

 そう考えた3日目の私は、禁断のカレーを何気なくそっと1杯、深皿に注いでトレイに置いた。

 

 「朝から、それも社運を賭けた仕事の日の朝食にカレーを取ってしまった。」

 その背徳感は、私を少しワクワクさせた。

 深皿からスプーンでお茶碗に少しカレーソースを移し、口に入れる。オーソドックスな日本式カレーだ。ブラウンソースをベースにしつつスパイスの香りが鼻孔をくすぐる。うまい。何も遠慮をすることはなかったのだ。

 

 ふと、皿を見ると、そこにスクランブルエッグがあった。

 

 「ひょっとすると、これを乗せると良いのでは」

 思いついた私は、おそるおそるそれを実行に移した。

 おそるべき「お得感」を覚えた。

 カレー屋でトッピングを頼むと、ふつうは追加料金が発生する。しかし、ここは朝食バイキングだ。何を取るのも自由なのだ。追加料金なしでトッピングが出来るのだ。いくらでも。

 

 スクランブルエッグを乗せたカレーを食べ終えた私には、既に意識髙いビジネスマン精神はほとんど残っていなかったが、それでも何とかその場は誘惑に耐え、最終日の4日目に備えることにした。

 

 朝食バイキングには半熟卵があった。

 ソーセージもあった。

 ベーコンもあった。

 ほうれん草のソテーもあった。

 何だったら納豆もある。

 

 いままさに、それら朝食会場に並んだ大量のおかずが全てカレーのトッピングとして立ち上がってきているのだ。

 

 出張最終日の朝、私は、ワクワク感を胸に朝食会場に足を運んだ。

 

 1日おきに代わるメニューが並んでいる。

 朝食会場の配置は熟知している。迷わず私はカレーのあったコーナーに向かい、深皿にそっと一杯、ソースを注ぎ、料理名の書かれたプレートを目にした。

 

 ――――そこには「特製ハヤシソース」と書かれてあった。

 

 

 

おいしさの正体が分からない話

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 職場でピーナツを頂いた。知り合いから貰ったけど食べないから、ということだった。

 なにやら立派な箱の中に、薄皮ごと炒られたピーナツが真空パックに詰められて入っていた。「ふーん。」と思った。

 

 私はかれこれ10年くらい千葉に住んでいて、千葉の名産といえばもちろんピーナツなんだけど、特にピーナツに思い入れはない。

 とりわけ、炒りピーナツには思い入れはない。積極的に食べたいと思わないし、食べた場面もあまり思い出せない。柿の種と一緒に入っているのを何となく食べたか、あるいは、飲み会の二次会で連れて行かれたスナックやバーで、ママさんがそっと置くのを何となく食べたくらい。

 たぶん日常のどこか片隅のほうでは、それなりの頻度で食べているのだろう。そんな気がする。でも、具体的な場面を思い出せない。

 

 そんなわけで、たいそう立派なピーナツを頂いたときも「ふーん。」と思った。

 ちょっぴり、「千葉県民の俺にピーナツとはいい度胸じゃないか。」とも思ってみたりしたあとで、棚の隅っこのほうに仕舞い込んだ。そしてそれきり忘れてしまいかけていた。

 

 なんとなく食べてみようと思ったのは、夜なんとなくお酒を飲んでいたら、なんとなく口さみしくなって、なんとなく棚の中を探してみたら、なんとなく目についたからだ。

 特になんという感慨もなく真空パックを開け、なんとなく口にした。2,3粒ほど食べればそれでいいや、くらいの感覚だった。

 

 気付いたら半分ほど食べてしまった。

  そして、その段階にきてようやく、「ひょっとすると、おいしいのかもしれない。」という可能性に気付いた。

 

 この場合、「おいしいかもしれない」というのが正確な感想である。決して「おいしい」という感じではない。

 いや。よくよく考えると、無意識のうちにパックの半分も食べてしまったのだから、「おいしい」に決まっている。僕の無意識の部分はちゃんと「おいしい」と言っているのだ。だから手が止まらなかったのである。

 それでも、僕の意識上の部分は、「おいしい」のかどうか、確信を持てないでいる。つまり、どこがどうおいしいのか、説明できないのだ。

 

 それは、そのあたりで市販されている普通のピーナツよりも香りが高いのかもしれないし、普通のピーナツよりも味が濃厚なのかもしれないし、普通のピーナツよりも歯触りが良いのかもしれないし、普通のピーナツよりも塩のバランスが良いのかもしれないし、その全てかも知れないし、そのどれも違うかもしれない。

 そもそも、「普通のピーナツ」がどんな味だったのか、感じだったのかも思い出せない。そもそも「普通」って何なのだ。

 

 思うに、今まであまりにピーナツの味に対して無関心すぎたのだ。

 あれだけありふれていて、あれだけ食べているような気がしていたけれど、何も味わうことなく、何も感じることなくただただ食べていただけだったのだ。無関心ゆえ、目の前のピーナツが本当においしいのかどうかすら、分からないのだ。

 

 私は、自分の不明を恥じた。

 自分のピーナツに対する無関心さに恐れすら覚えた。

 

 そして私は、感傷と共に一息つき、残り半分となったピーナツを器に移しかえ、ラップを張りながら

 

 ……でもまあ、所詮はピーナツだし、どうでもいいか。

 

 などと思いながら、戸棚に仕舞うのであった。

おかあさんといっしょに見る格差社会の現実

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 おかあさんといっしょのぬいぐるみ劇、「ポコポッテイト」は、絶海の孤島「ぽてい島」に住む、「ムテ吉」「ミーニャ」「メーコブ」の仲良し三人組が主人公だ。

 

 元気いっぱいのわんぱく小僧のムテ吉、お洒落でちょっぴりわがままなミーニャ、おっとり気弱なメーコブといったところだ。往年のぬいぐるみ劇、「にこにこぷん」を思い出させる組み合わせである。実際、にこにこぷんの三人組を思い出して貰えれば概ね外れてないと思う。絶海の孤島が舞台だという点も似ている。
 ちなみに、モチーフとしている動物はムテ吉が「ラーテル」、ミーニャが「マンチカンネコ」、メーコブが「ジャコブヒツジ」だ。なぜそんな細か過ぎて伝わらない動物をモチーフにしたのか、という話題は、既にもう何周もしている感があるのでここでは触れない。
 
 この三人、いつもつるんでいるが、種族も違うし、年齢も微妙に離れている。そして、家庭環境はだいぶ違う。
 
 メーコブは名門ジャコブの御曹司で、お金持ちで、お坊ちゃんだ。
 いつも三つ揃えのスーツに蝶ネクタイを合わせ、丈の短い金持ち短パンに、スエードっぽい素材の高そうなシューズを履いている。ちなみにみんなと外で遊ぶ時も三つ揃えだ。きっと泥んこにしても叱られないのだろう。だって金持ちにはそれが普段着だから。
 
 対するムテ吉は、両親が不在がちなので、祖母と一緒に暮らしている。そしていつも祖母の経営する風呂屋を手伝わされてる。
 服装はいつもタンクトップに短パンと、とても質素だ。冬でもタンクトップである。それしか服がないのかもしれない。いちおう、マフラーとニット帽はかぶるみたいだけど。
 
 いつも仲良しなので気にならないけど、特にこの二人の家庭の経済格差は顕著なのだ、ということを先日の放送で痛感することになった。あ、ちなみにミーニャさんは正真正銘の中産階級です。
 
 ある日、いつものように遊んでいると、メーコブが三人でお寿司屋さんごっこをしようといい始めた。
 なんでも、先日、両親と一緒に、執事も連れて、お寿司を食べに行ったらしいのだ。おいおい執事ときたよ。自慢か。
 
 みんなお寿司は大好きなので、「やろう」ということになった。
 ムテ吉も「オラっちもばあちゃんにお寿司を作って貰ったことあるぞ!」と嬉しそう。ムテ吉の「作って貰ったことがある」という寿司経験値に不安を覚える。
 
 寿司屋の板前になりきって張り切るメーコブ。
 そこへミーニャ(中産階級)が、「そうじゃなくて、回ってる寿司が良いニャ!」なんてことを言い出した。ミーニャ(中産階級)にとっては、回っている寿司こそが寿司なのだ。
 
 不承不承応じるメーコブ。
 そして、メーコブは両手に寿司の皿を持ち、お客さん役のミーニャ(中産階級)とムテ吉に、自らくるくる回りながら手渡そうとし始める。
 「目が回る―」とメーコブ。
 「そうじゃないニャ!」つっこむミーニャ(中産階級)。
 全くつっこめないムテ吉。
 
 そうじゃない、ということになって、今度はお皿が置かれたテーブルの周りをぐるぐる回りだすメーコブとムテ吉。
 やっぱり違うとミーニャ(中産階級)。
 よく分からないけど楽しげなムテ吉。
 
  要するに、メーコブもムテ吉も、「寿司が回る」ことを全く理解できていない、つまり、存在自体を知らないのだ。それぞれ全く別の理由から。
 
 整理すると、
 メーコブにとってのお寿司とはカウンターで板前が出すものでしかなく、
 ミーニャにとってのお寿司とは回転寿司を指し、
 ムテ吉にとってのお寿司とは、祖母が作ってくれるものでしかない
 のだ。
 
 これを格差社会と呼ばずしてなんと呼ぶべきか。
 
 まあ、おかあさんといっしょの世界もなんだか世知辛くなったものですね、ということにしておきます。オチは無い。きっとムテ吉のばあちゃんのお寿司は世界一美味しいんだよ。ね。ね。