鼻猫亭

毎日のこととかぼんやり考えたことなど

声がイメージを侵食する

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 普段から仕事上ときどき電話で話してるけど、実際には数年も前に一度だけ会ったきりの人と会ったら、顔を合わせるなり、「あれ?この人こんな顔だっけ?」と思ってしまった。

 
 久しぶりにあったその人は、真面目そうで、実直そうで、そしてダンディだった。
 僕の記憶の中でのその人は、もうちょっと剽軽でおちょこちょいでとぼけた感じで、親しみやすそうな感じだったのだ。例えるなら、美味しんぼの富井副部長だったのだ。出っ歯で、赤鼻で、天然パーマの富井副部長。かん高い声で山岡士郎を叱りつける富井副部長。美味しんぼ随一のトラブルメイカー。
 
 その人は、出っ歯でもなく、赤鼻でもなく、天然パーマでもなかった。
 僕は見知らぬ紳士を目の前にして、僕の中にいた富井副部長はどこに行ったのだと戸惑いながら挨拶を交わした。
 
 「ご無沙汰しています。」
 「どうも、ご苦労様です。」
 
 それは確かにふだん電話で聞いている声だった。
 少しかん高くて、剽軽そうで、少しとぼけたような質感の声。例えるなら美味しんぼの富井副部長である。
 
 結局のところ、しばらく会わないうちに僕は、記憶の中のイメージを、声から受ける印象でだんだん塗り替えて行ってしまったのだろう。
 つまり、実直な紳士にだんだん富井副部長のイメージが入り込み、侵食し、ついに富井副部長にすり替わってしまったのだ。キャラクターのインパクトのなせる業、富井副部長恐るべしだ。
 
 まあ、冷静に考えるとあんな顔の人いないよな、と思いながら帰ったのだけど、でも心のどこかでは、以前に会ったのはやっぱり富井副部長で、声以外がどこかですり替わったんじゃないか、という気がしてならない。

シャチを見にゆく

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 南房総といえば、マザー牧場鴨川シーワールドと相場が決まってる。逆にいえば、ほぼ、その二つしかない。あとあるものといえば海と島と灯台と花畑と美味しい魚くらいだ(なんだ結構あるじゃないか)。
 
 このあたり、マザー牧場もシーワールドも心得たもので、両方のチケットが一緒になって、ちょっぴりお得な「シープ&オルカチケット」なんてものが売ってたりする。
 ちなみにオルカっていうのは、シャチのことね。何となく、「食物連鎖」とか、「弱肉強食」といった言葉が頭に浮かぶけど、気にしてはいけない。
 

 南房総に遊びに行った折、御多分に洩れず、シーワールドにも足を伸ばしたんだけど、この水族館は何と言っても、海獣とそのショーが充実してる。

 残念ながら魚類部門はやや物足りないんだけど、シャチやベルーガを飼育してる水族館はそう多くないと思うので、その二つを見るだけでも行く価値はあるんじゃないかと思うのだ。

 
 とりわけ、シャチである。
 
 何と言ってもシャチは巨大だ。巨大な生物はそれだけで見ていて気分が良い。
 イルカなんかと比べると、巨大さが際立っている。流線形の美しいフォルムながら、体つきは筋肉でみっしりとしていて、何やら質量を感じさせる。
 そして、巨体と対照的なのが黒と白を基調とした、パンダを思わせるカラーリング。獰猛な海の生き物とは思えない愛らしさを感じる。
 
 そのシャチがショーをする。
 トレーナーを乗せて悠々と泳いだり、その巨躯を空に投げ出し、ジャンプしたりする。来たからには見ないわけにはいくまい。
 
 シャチのショーは、僕らが行った時にはあらかた席が埋まっていて、前から一、二列にぽつぽつ空きがある状態だった。
 
 最前列付近が空いている、というのはおそらく理由があって、一つは、すり鉢状に傾斜してる観覧席の構造上、最前列だと、目線が水槽の高さより低くなるということ。そして二つ目は、席に「この付近は水に濡れるのでご注意下さい」と注意書きされていることだ。
 
 二つ目は、あの巨体から濡れるだろうことは想像がつく。ご丁寧に使い捨てポンチョまで売ってる有様である。軟弱者の我が子らは「濡れるの嫌だ」などと抜かしおるので、二枚買ってやり、最前列から二番目に陣取った。
 
 ショーは流石に圧巻であった。
 
 シャチがトレーナーを背中に乗せて泳ぐ。
  思い切り水に潜ってから豪快にジャンプする。
  豪快に水を飛ばしてくる。
 
 今度はトレーナーがシャチに立ち乗りする。
  水に潜って豪快にジャンプする。
  豪快に水を飛ばしてくる。
 
 ふと、「わざとやってないか」といった考えが頭を過る。
 
 だいいち、巨体を水に打ち付けて跳ね飛ばす水は、「水しぶき」なんてものではない。水の塊といった重量がある。重い。そして痛い。
 
 不信感が次第に確信に変わる。
 
 シャチが水槽のへりに身体を擦り付けるように見せつけるように泳いできたとき、確かに奴らは、水面に出た胸ビレを巧みに使い、わざと水を跳ね飛ばしてきたように見えた。
 
 こいつら…やる気だ。そう確信した次の瞬間。
 
 シャチは頭を水槽の底の方に沈め、倒立の姿勢を取り、尾びれを水面に突き出し、その尾びれで思い切り水を
 

 ズバーン!ズバーン!ズバーン!

 
かけてきやがった。
 
 それは一抹の躊躇いもなく、容赦もなく、悪意をもって行われた。
 
 軽く風呂一杯分くらいはかぶったと思う。海水を。ずぶ濡れ。しょっぱい。べたべたする。ポンチョ代300円をケチってる場合じゃなかったね。
 
 結局、フラフラの体でシャチの水槽を後にして、トイレでシャツを雑巾絞りすることになりました。
 今後行く人には、滅多に出来ない体験なので、是非、最前列に陣取ることをオススメします。あと、ポンチョ代をケチると、確実にご家族や友人の笑いが取れるので、これもオススメです。

民宿に泊まる

 今年の夏は、いろんな事情が重なって、なかなか家族で旅行に行ったりできなかった。

 一番の原因は、息子の夏期講習とやらで、毎日毎日、せっせと塾に通ってたりしていて、そんなに勉強してるとアホになるんじゃないかなーと心配したほどだ。これはどこでもいいから1泊でも2泊でもいいからどこかに行かねば本格的にアホになってしまう、と思って探し始めたのが、息子の夏期講習の休業期間であるお盆の1週間前でした。こういうときの僕は、徹底して行動が遅いのだ。

 

 率直に言って、日本のお盆舐めてたとしか言いようがない状況で、安くて良さげな宿は軒並み予約で埋まっていて、もうどうしようかと思って手当たり次第あたってたら、房総半島の最南端のあたりにある民宿の予約が取れた。しかも一泊一人5千円台である。すごい!安い!&心配!!

 

 僕自身は、小さいころ釣好きの親に連れられてよく釣り宿に泊まったので、だいたいの感じは想像がつくんだけど、子供らの反応が心配。たぶん今まで、ロビーのあるような宿しか泊まったことがないはず。

 いちおう、宿検索サイトには「家族で泊まりましたが感じが良くて良かったです。」という書き込みがあったので、それなりにまともな宿だと判断したんだけど、きっとボロボロなんだろうなーと思いながら車を走らせて数時間。着いてみたら、畳は擦り切れてるしふすまは破れてるし、案の定だったんだけど、なんとか想定内に踏みとどまった感。

 なんせ、冷蔵庫はないけどテレビが付いてる。しかもちゃんと地デジが入る。さらにエアコンも付いて…付いて……

 おや…?エアコンのコントロールパネルの代わりに何やら大きな箱が……。

 そして、硬貨の投入口らしき穴が…。「100円コインをお入れ下さい」…だと…。

 

 

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 タイムトロンだ!!!

 

 20年ぶりくらいに見たよ。よく旅館のテレビについてたよこれ。懐かしいな。

 

 というわけで、エアコンを動かすのに近所のスーパーで小物を買ったりして小銭を用意するのが手間でしたが、ご主人はいい人だったし、風呂もそこそこ広くて気持ちよかったし、料理も美味しかったし、とても良かったです。

 

 そしてなぜか子供らに大変ウケが良かった。

 

 2人して気の抜けきった声で、

 「はぁ~。狭くて落ち着くわぁ~。畳の部屋いいわぁ~。ダラダラ出来るわぁ~。」

 とか抜かしてた。

 

 まったくあなた方ときたら……。

野次が容認される意味が分からない

 都議会で、育児支援策について質問中の女性議員に、別の議員が「早く結婚した方がいいんじゃないか」と野次を飛ばした話についてだけど、他人の個人的な事情を揶揄して嘲笑するのって端的に言って侮辱以外の何物でもないし、公共の場で誰かを侮辱するなんてことは、理性的な大人のすることとしては、個人的にはちょっと理解しがたい感覚だ。

 そもそも、シングルマザ―の問題も含むはずの育児支援策についての議論の場で、「女性は結婚して家庭に入るべき」という前時代的な価値感に基づく発言をすること自体、育児支援の問題に対して無関心だってことの表れなんだろうと思う。

 そんなわけで、ぼくとしては、野次の発言者を早く特定して発言に対する責任を問うべきなんじゃないかと思うんだけど、そもそも、議会において「野次」を飛ばすこと自体、議会にとって有益なんだろうか。

 これに関しては、昔から「野次は議論の華」という言葉を耳にするし、時として「野次があることで議論が活性化されるので、積極的に容認すべき」という意見も聞くのだけど、やはりそれは間違いだと言いたい。議論の場での野次は、健全な議論の形成に有害な行為であって、基本的に容認すべきじゃない。


 第一に、野次は発言に対する妨害だ。

 議論では、意見の陳述者に対して、意見をきちんと発言させることがまずは重要だ。
 議論とは、突き詰めていえば、異なる意見を持つ同士が、自分とは異なる意見を聴き、自他の意見の長所・短所を見極め、双方の意見を修正・調整しながら、全体にとって最適な結論を導くプロセスのはずだ。そのための第一歩として、意見を陳述する機会と、意見を聴く機会をきちんと確保する必要がある。
 これに対して野次は発言者の意見陳述を妨害する。
 発言者に心理的圧力をかけ発言を委縮させるだけでなく、発言中にノイズを発することで聴取者を妨害する。後者は発言に対する物理的な妨害だし、下手をすると発言を暴力で阻止するのとあまり変わらない。


 第二に、野次は効率的な議論を阻害する。

 議論には争点がある。効率的な議論のためには、議論の参加者内で早い段階で争点を共有し、争点に対して集中的に意見を交換することが望ましい。
 議論に無関係な野次が飛び交うことは、争点を混乱させることになりかねない。これは、集中的な議論を妨害し、議論の効率性を阻害することになる。


 第三に、野次は発言に対する責任の所在を曖昧にする。

 とりわけ国会や自治体の議会のような場においては、「誰がその発言をしたのか」は非常に重要な問題だ。
 「その人がどのような発言をしているか」「どのような意見を持っているか」は、選挙での重要な判断材料である。先の都議会の例で言えば、育児支援に対してより積極的な政策に期待している人は、次回の選挙では野次を飛ばした議員に投票すべきではないだろう。

 しかし、野次はイレギュラーに発せられるため、往々にして、誰による発言かが特定されない。特定されない場合には、とんでもないことを言っていても、責任を取らせることができない。

 結論として、野次は、無責任な立場から発言者を妨害し、議論を混乱させる行動に他ならないと思うのだけど、どうして「野次は議論の華」なんて言われて、時として積極的に容認されているのか分からない。
 仮に百歩譲って、野次が議論の(表面的な)活性化をもたらすとしても、野次みたいな幼稚な方法でしか議論を活性化できない議員は、そもそも議員としての資質がないと思うんだけどなあ。

キュウリの花が咲いた

 こないだキュウリを育ててる話を書いた。(キュウリを育てる - 鼻猫亭

 みるみる大きくなったことも書いた。

 茎が太くてたくましい事も書いた。何故か蔓を伸ばさないことも書いた。

 ついに、そのキュウリが花を咲かせた。太陽に向かって咲く、とても大きくて立派な花だ。

 おかしいな、ひまわりにしか見えない。

 相方曰く、
 「茎の伸びかたも、葉っぱの形も、どこからどう見ても最初からひまわりだったじゃん。あなたたちがどうしてこれをキュウリだって言い張るのか今までずっと、全く理解できなかった。」
 
 だって、蒔いたのは確かに「キュウリの種」と書かれた袋から出した種だったんだから仕方がない。

 娘は、花が咲いてもなお、頑なにこの花はキュウリだと信じている。

 「だってさ。ひまわりだとすると、花が太陽の方向に向いてるはずでしょう。この花は太陽の方向からちょっとずれてるでしょう。だからこれはひまわりじゃなくてキュウリだよ。」
 
 憐れ、娘はすっかりキュウリ教に洗脳されているらしい。そのうち、持ってるだけで植物が良く育つ壺とかを買ってそうで心配である。

 しかし、ひょっとすると…ひょっとすると、この大きな花の真ん中あたりから、蔓がにょろにょろと伸びてきて、キュウリの実を付けるのかもしれないぞ。なんせ、蒔いたのは確かにキュウリの種だったもんな。

 なんて思ってたら、ふと足元に、なんだか小さな小さな植物が育ってるのに気づきました。

 遅いよ!!!

寿司は回すに限る

 先日、取引先に食事に誘われて寿司を御馳走になったんだけど、大変美味しい寿司で、幸せな気分になった。

 いかにも正統派の江戸前寿司といった風情の小ぶりの寿司で、こはだはキリッと締まっていたし、ヒラメは昆布の風味がねっとりとして、マグロはほんの軽くヅケにされていた。この手の「仕事がされている」寿司を食べたのは、ひょっとすると初めてかもしれない。きちんと仕事がされているので醤油を付ける必要がない寿司など、話には聞いていたが実在するとは思わなかった。

 改めて、寿司って美味しかったんだなあ、日本に生まれて良かったなあと思った次第。

 ただ、唯一、惜しむらくは、回っていなかったことである。

 この際ハッキリ言っておくが、寿司は回らないものよりも回した方がうまい。
 世の中の一部には、寿司を回さないことを良しとし、これを珍重する風潮があるようだが、断固として意を唱えたい。寿司はすべからく回すべきである。

 第一に、回した寿司には安心感がある。
 レーンの奥の方から次から次へと皿に乗った寿司が運ばれてくる姿は感動的ですらある。
 途切れることの無い食料の供給、これは、古来から飢えの恐怖と闘ってきた我々に大いなる安心感を与えてくれる。安心感を通り越して「こんなに食物が流れてきて地球的に大丈夫なのか」と不安になったりするほどだ。

 これに対して回らない寿司はどうだ。目の前のガラスケースに何やら魚の切り身らしきものが入ってはいるものの、それが寿司となるかどうかは判然としない。
 そもそも、回らない寿司屋の場合、身の処し方を少し間違えただけで、いつ、大将が「出て行きやがれ。お代なんざ要らねえよ。おとといきやがれ。」と塩を撒きだすか分からないと聴く。私は回らない寿司には行かないのだが、そういうことが度々あるということは、主にグルメ的な漫画が教えてくれたので間違いはなかろう。
 いつ食料が供給されるか分からない不安。回らない寿司にはそれが付きまとう。おそらく。たぶん。きっと。

 第二に、実は、寿司は回すことによってネタのグレードが上がることがある。
 アフリカの川に棲む白身魚は回すことによって「タイ」になったりする。カレイのひれの脇の筋肉が「エンガワ」になったりする。マンボウも回ると「ネギトロ」になるし、何かよく分からないカプセルに油を入れたものが「イクラ」になる。
 回らない寿司にはそんなことはまず、生じない。タイはタイであり、エンガワはヒラメの肉であり、ネギトロはマグロの中落ちであり、イクラは鮭の卵である。回さない寿司のネタは、そのままのネタであり、何らグレードが上がったりしない。
 きっと、回らない寿司で出てくるイクラを回した場合には、おそらくチョウザメの卵かなんかに変化するに違いない。勿体ないことだ。

 寿司は回すに限る。きっと、回すことで寿司の中の旨味成分に微妙な振動が伝わり、味もまろやかになったりとかするはずだ。科学的な根拠は知らないがそうなのだ。

 しかし、ここで再度思い返してみる。
 回らない寿司の丁寧に仕事を施したであろうネタ。そして、職人の技術を凝らして握られた、口の中で程よくほどけるシャリはどうだ。回る寿司こそが寿司であると信じてきた我が信念を揺るがすものでは無かっただろうか。

 否。おそらくあれは実は寿司ではない。もっと夢のような食べ物なのだ。レーンの上で店内をぐるぐる巡回している食べ物こそが寿司なのだ。

 回る寿司こそが寿司であるという我が信念は決して揺るいだりはしないのだ。主として、財布の中における福沢諭吉氏の在席状況に関連する事情により。

キュウリを育てる

 春先に植物の種をたくさん植えた。
 かぶ、人参、きゅうりと、いくつかのハーブを植えた。

 かぶはすくすくと育って大きくなった。すっかり食べごろを逃してしまって、土の上からちょっと顔を出した実の上の方から見慣れない茎が伸びてしまってる。
 人参も一生懸命葉を伸ばしている。
 ハーブ勢は自由気ままに伸び放題に伸びている。

 中でも頑張っているのはキュウリである。猛烈な勢いで芽を伸ばし、目を見張る速度で背が高くなり、ぼくの胸あたりまで大きくなった。ぼくは背が高い方なので、これは結構な大きさである。

 ところが、いつまで経っても一向に蔓が伸びてこない。キュウリは蔓が伸びて絡まりながら育つと聴いていたのに、うちのキュウリは太陽に向かって太くてたくましい幹とも言うべき茎をずんずんと伸ばしている。

 きっとそのうち、その茎のどこかからにょろにょろと蔓が伸びてくるんだろうと思っていたら、幹の一番てっぺんから、今までとは様子の違う固い葉っぱのようなものが寄り集まった丸いかたまりができた。

 これ、何だか見た事がある。そうだ、これはひまわりだ。

 断じていうけど、ぼくは確かに「キュウリの種」と書かれた袋から出した種を蒔いた。思いのほか大きい種だったので、ふうんと思ったんだけど、ひまわりの種ではなかった。ひまわりの種なら知っている。平べったい紡錘形のしましま模様の種だ。ひまわりの種と間違えるわけがない。
 …わけはないんだけど、やっぱりこっちも平べったい紡錘形の種だったので、ほんとうにひまわりの種じゃなかったのかと言われるとちょっと自信がない。

 今でも、ひょっとすると、茎のてっぺんにできた丸い部分から、突然、にょろにょろと蔓が伸びてくるんじゃないかと考えている。

 想像するとちょっと怖い。