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鼻猫亭

毎日のこととかぼんやり考えたことなど

寿司は回すに限る

 先日、取引先に食事に誘われて寿司を御馳走になったんだけど、大変美味しい寿司で、幸せな気分になった。

 いかにも正統派の江戸前寿司といった風情の小ぶりの寿司で、こはだはキリッと締まっていたし、ヒラメは昆布の風味がねっとりとして、マグロはほんの軽くヅケにされていた。この手の「仕事がされている」寿司を食べたのは、ひょっとすると初めてかもしれない。きちんと仕事がされているので醤油を付ける必要がない寿司など、話には聞いていたが実在するとは思わなかった。

 改めて、寿司って美味しかったんだなあ、日本に生まれて良かったなあと思った次第。

 ただ、唯一、惜しむらくは、回っていなかったことである。

 この際ハッキリ言っておくが、寿司は回らないものよりも回した方がうまい。
 世の中の一部には、寿司を回さないことを良しとし、これを珍重する風潮があるようだが、断固として意を唱えたい。寿司はすべからく回すべきである。

 第一に、回した寿司には安心感がある。
 レーンの奥の方から次から次へと皿に乗った寿司が運ばれてくる姿は感動的ですらある。
 途切れることの無い食料の供給、これは、古来から飢えの恐怖と闘ってきた我々に大いなる安心感を与えてくれる。安心感を通り越して「こんなに食物が流れてきて地球的に大丈夫なのか」と不安になったりするほどだ。

 これに対して回らない寿司はどうだ。目の前のガラスケースに何やら魚の切り身らしきものが入ってはいるものの、それが寿司となるかどうかは判然としない。
 そもそも、回らない寿司屋の場合、身の処し方を少し間違えただけで、いつ、大将が「出て行きやがれ。お代なんざ要らねえよ。おとといきやがれ。」と塩を撒きだすか分からないと聴く。私は回らない寿司には行かないのだが、そういうことが度々あるということは、主にグルメ的な漫画が教えてくれたので間違いはなかろう。
 いつ食料が供給されるか分からない不安。回らない寿司にはそれが付きまとう。おそらく。たぶん。きっと。

 第二に、実は、寿司は回すことによってネタのグレードが上がることがある。
 アフリカの川に棲む白身魚は回すことによって「タイ」になったりする。カレイのひれの脇の筋肉が「エンガワ」になったりする。マンボウも回ると「ネギトロ」になるし、何かよく分からないカプセルに油を入れたものが「イクラ」になる。
 回らない寿司にはそんなことはまず、生じない。タイはタイであり、エンガワはヒラメの肉であり、ネギトロはマグロの中落ちであり、イクラは鮭の卵である。回さない寿司のネタは、そのままのネタであり、何らグレードが上がったりしない。
 きっと、回らない寿司で出てくるイクラを回した場合には、おそらくチョウザメの卵かなんかに変化するに違いない。勿体ないことだ。

 寿司は回すに限る。きっと、回すことで寿司の中の旨味成分に微妙な振動が伝わり、味もまろやかになったりとかするはずだ。科学的な根拠は知らないがそうなのだ。

 しかし、ここで再度思い返してみる。
 回らない寿司の丁寧に仕事を施したであろうネタ。そして、職人の技術を凝らして握られた、口の中で程よくほどけるシャリはどうだ。回る寿司こそが寿司であると信じてきた我が信念を揺るがすものでは無かっただろうか。

 否。おそらくあれは実は寿司ではない。もっと夢のような食べ物なのだ。レーンの上で店内をぐるぐる巡回している食べ物こそが寿司なのだ。

 回る寿司こそが寿司であるという我が信念は決して揺るいだりはしないのだ。主として、財布の中における福沢諭吉氏の在席状況に関連する事情により。