おいしさの正体が分からない話
職場でピーナツを頂いた。知り合いから貰ったけど食べないから、ということだった。
なにやら立派な箱の中に、薄皮ごと炒られたピーナツが真空パックに詰められて入っていた。「ふーん。」と思った。
私はかれこれ10年くらい千葉に住んでいて、千葉の名産といえばもちろんピーナツなんだけど、特にピーナツに思い入れはない。
とりわけ、炒りピーナツには思い入れはない。積極的に食べたいと思わないし、食べた場面もあまり思い出せない。柿の種と一緒に入っているのを何となく食べたか、あるいは、飲み会の二次会で連れて行かれたスナックやバーで、ママさんがそっと置くのを何となく食べたくらい。
たぶん日常のどこか片隅のほうでは、それなりの頻度で食べているのだろう。そんな気がする。でも、具体的な場面を思い出せない。
そんなわけで、たいそう立派なピーナツを頂いたときも「ふーん。」と思った。
ちょっぴり、「千葉県民の俺にピーナツとはいい度胸じゃないか。」とも思ってみたりしたあとで、棚の隅っこのほうに仕舞い込んだ。そしてそれきり忘れてしまいかけていた。
なんとなく食べてみようと思ったのは、夜なんとなくお酒を飲んでいたら、なんとなく口さみしくなって、なんとなく棚の中を探してみたら、なんとなく目についたからだ。
特になんという感慨もなく真空パックを開け、なんとなく口にした。2,3粒ほど食べればそれでいいや、くらいの感覚だった。
気付いたら半分ほど食べてしまった。
そして、その段階にきてようやく、「ひょっとすると、おいしいのかもしれない。」という可能性に気付いた。
この場合、「おいしいかもしれない」というのが正確な感想である。決して「おいしい」という感じではない。
いや。よくよく考えると、無意識のうちにパックの半分も食べてしまったのだから、「おいしい」に決まっている。僕の無意識の部分はちゃんと「おいしい」と言っているのだ。だから手が止まらなかったのである。
それでも、僕の意識上の部分は、「おいしい」のかどうか、確信を持てないでいる。つまり、どこがどうおいしいのか、説明できないのだ。
それは、そのあたりで市販されている普通のピーナツよりも香りが高いのかもしれないし、普通のピーナツよりも味が濃厚なのかもしれないし、普通のピーナツよりも歯触りが良いのかもしれないし、普通のピーナツよりも塩のバランスが良いのかもしれないし、その全てかも知れないし、そのどれも違うかもしれない。
そもそも、「普通のピーナツ」がどんな味だったのか、感じだったのかも思い出せない。そもそも「普通」って何なのだ。
思うに、今まであまりにピーナツの味に対して無関心すぎたのだ。
あれだけありふれていて、あれだけ食べているような気がしていたけれど、何も味わうことなく、何も感じることなくただただ食べていただけだったのだ。無関心ゆえ、目の前のピーナツが本当においしいのかどうかすら、分からないのだ。
私は、自分の不明を恥じた。
自分のピーナツに対する無関心さに恐れすら覚えた。
そして私は、感傷と共に一息つき、残り半分となったピーナツを器に移しかえ、ラップを張りながら
……でもまあ、所詮はピーナツだし、どうでもいいか。
などと思いながら、戸棚に仕舞うのであった。
おかあさんといっしょに見る格差社会の現実
おかあさんといっしょのぬいぐるみ劇、「ポコポッテイト」は、絶海の孤島「ぽてい島」に住む、「ムテ吉」「ミーニャ」「メーコブ」の仲良し三人組が主人公だ。
葛西のマグロを確かめに行く
水槽が腐海に沈む
青葉の森公園で彫刻を眺める
千葉県の千葉市の真ん中あたりに青葉の森公園というやたら広い公園があって、博物館があったり生態園があったり、なかなか気の利いた公園なんだけど、その入口あたりに彫刻の広場と銘打たれた場所がある。名前の通り、開けた場所に、彫刻が20体ばかり置いてある。
何れも現代日本を代表する彫刻家の手による作品らしいのだが、私は彫刻には疎いので残念ながらどれほど有名な作家なのかとんと分からない。分からないが、どれも妙に味わい深いので、割と気に入っている。
しかもお父さんは明らかにお風呂上がりだ。全裸による筋肉の美しさを表現することを敢えて避け、腰にタオルを巻いたのは、お風呂上り感を出したかったからに違いなかろう。空に突き出た左手は、ひょっとすると冷蔵庫の中のフルーツ牛乳を物色してるのかもしれない。
こちらの「絆」もなかなかのものだ。
お母さんらしき人物が、滑り台のようなウェーブがかかったスロープの下で、2人の子供に手を差し伸べてる。お母さんは後ろの方に引っ張られているような体勢だ。
2人の子供のうち女の子の方は、男の子の肩を踏み台にして、空に向かって飛翔せんとばかりに手を広げている。
素晴らしい躍動感だ。母親と子供たちを左右に配置して、それらがまるで逆の方向に向かって強い力で引っ張られ、離されていくように感じる。まさに「絆」だ。
ただし、シチュエーションが全く分からない。あと、踏み台にされてる男の子はもうちょっと文句言っていい。
「眩驚ーIII」これは文句なしに素晴らしい。せっかくなので、迫りくる感じでお届けしたい。
どん
以前はもっと金ピカだったのだけど、最近になって像の表面がところどころダメージを受け始めてるのが残念だ。千葉県は早く修復してあげてください。お願いします。
最後に、「家族の肖像-I」を紹介したい。
おじいさんを筆頭に、おばあさん、お母さん、男の子、女の子が同じ方向を向いて立っている。
おじいさんは水戸黄門のような髭をはやし、作務衣を着てなにやら長い棒を持っている。きっと頑固爺さんだ。たぶん怒ったらこの棒でぶってくる。
おばあさんもお母さんも、なんとなく似た風貌の和服の女性で、どちらもどこかにいそうな容姿をしている。
特筆すべきはおねえさんだ。
圧倒的なリアリティで造形された、普通のおねえさんだ。お母さん似のもっさりとした顔立ち。もっさりとしたセーラー服。そして、もっさりとした髪型。どこをどうとってももっさりとしている。
何だかもう、このリアリズムは残酷ですらある。歳頃の娘さんなんだから、公園に飾られるのだから、もう少し華やかに造っても良かったのではないかと思う。でも作者のリアリズムはそれを許さなかったのだ。
そして、その結果として、リアリティに溢れたもっさり一家は、みんな同じ方向を向いたまま、いつまでもいつまでも、皆でぼやーんと立っているのだ。
通勤電車で弁当を食べる若者の話
通勤電車の中で食事を取るのはマナー上あまり宜しくない。
ローカル線の進行方向に垂直に置かれた座席だと、パーソナルなスペースがある程度区切られているのであまり気にならない。だけど、通勤電車の横並びのロングシートだと、お互いの距離が近い上に仕切られていないので、どうしても気になってしまう。
人前でものを食べるのがお行儀悪いとか、その手の小煩いことはあまり言いたくないのだけど、なにぶん、お互いの距離が近いせいで電車が揺れるたびにこぼれて飛沫がかからないかとか、現実的な心配がある。
先日、混雑した通勤電車の中で、タルタルソースがたっぷり挟まったパンを立ったまま食べてる人を見かけた時には、さすがに止めようかと思った。ふらついた拍子にあらぬ方向にパンが飛んでいったら、確実にトラブルになるもの。
さて、その日は仕事が遅くなり、夜の11時ちょっと前に電車に揺られていた。乗客はそれほど多くなくてまばらな感じ。そこに、大学生くらいの若者がコンビニのレジ袋を手に乗り込んできた。
寒い日だったせいで、レジ袋からはほんのり湯気が出てるのが見える。その時点で既にドミグラスソースの匂いが漂っている。
おそらく、乗客の大半が「おいおい、ここで食べるのかよ。」と思いながら見ている。もちろん、私も思ってる。
若者は、そんな乗客の視線を知ってか知らずか、空いていたロングシートの座席に座り、レジ袋の中からほかほか温まったコンビニのハンバーグ弁当を取り出し、膝に置いた。
若者は膝の上でシュリンクラップを破り取り、プラスチック容器の蓋をあける。ドミグラスソースの匂いがふわんと一瞬で強くなった。
「やっぱりここで食べるのか」
「ここで食べるんだな」
「行儀の悪いやつめ」
匂いが立ち込めると同時に、乗客の視線は厳しくなる。
そのとき。
若者は、膝の上でホカホカ湯気を立ててるハンバーグの前で、両手の親指と人差し指の間に箸を挟み、やおら手を合わせ、軽く目をつぶり、少し頭を下げて、小さな声で「いただきます。」と言った。
きっと、どんな食事でも、たとえ周りに誰ひとりいなくても、彼はものを食べる前には必ず、何かに向かって「いただきます」と言ってるのだろう。それはとても自然で嫌味のない動作だった。
「なんだ。良いやつじゃないか」
「腹が減ってたんだな」
「慌てずに食べろよ」
どういうわけだか一瞬にして和やかになった乗客の視線の中、若者は終電近い電車の中で、黙々とハンバーグ弁当を食べるのでした。
節分の豆はピーナツでも良いのか
節分といえば豆撒きだ。
節分に豆を撒くことで、悪い鬼を追い払い、福を呼び込み、そうすると一年間無病息災で生活できる、と、だいたいこういう段取りになっている。
そして、節分で撒く豆といえば、一般的には煎り大豆だろう。
節分が近づいてくると、煎り大豆が鬼の面と一緒にスーパーで売られるようになる。撒いて、歳の数だけ食べる。そして、食べ進めるごとに口の中がパサパサになる。
ところが、千葉に来てから、節分でピーナツを撒く一派がいることを知った。殻つきのピーナツを殻ごと撒くのだ。
この点、ピーナツ派の言い分によると、「ピーナツを殻ごと撒くと後で食べやすい」「掃除も楽」なんだそうである。
確かに、部屋の隅っこに落ちて埃にまみれた豆を食べるのも抵抗があるという人は多いだろう。庭に撒いて泥がついたものなど以ての外だ。その点、殻つきピーナツであれば、殻さえ割れば中身は無事だ。
また、煎り大豆は小さくてコロコロ転がり、後で掃除するのが大変である。数日経ってから、網戸のサッシの隙間から発見されたりすると大変げんなりする。玄関先に撒かれて、鬼役に踏まれたりなんかすると、細かい破片がそこらじゅうに飛散する羽目になって腹立たしい。
殻つきピーナツだと、ある程度大きいし、転がらない。発見もしやすいし掃除もしやすい。踏んづけたら粉々になるだろうけど。
そんなわけで、節分豆に殻つきピーナツを用いるのはなかなかのアイデアではあるのだが、ここでひとつ疑問がある。
ピーナツは果たして鬼に効くのだろうか。
仮に、鬼の性質が「煎り大豆は苦手だけど、ピーナツなら平気」というものであれば、ピーナツ撒きはただの徒労である。
まして鬼が「ピーナツは好物」というのであれば目も当てられない。むしろ寄ってくる。効果のほどが分からなければ、怖くてピーナツなど撒くことはできない。
そもそも、何故、鬼は豆が苦手なのだろうか。
調べたところ、以下のサイトに理由が紹介されていた。
豆撒きは中国の習俗が伝わったもの。そして「まめ」は「魔滅」につながり、魔を滅ぼす力があるとされているらしい。
豆撒きのルーツは中国なのに、日本語のダジャレが通じるのだろうかという疑問が否めないが、そこはそっとしておこう。とにかく、「まめ」であれば良いということのようだ。
ただし、煎った豆でなくてはならないらしい。「生の豆を使うと、拾い忘れた豆から芽が出てしまうと縁起が悪い」かららしい。
芽が出るのはむしろ縁起がいいんじゃないかって気もするが、まあ、庭から豆がぼうぼうに生えてきても困るので、そういう事にしておこう。
「煎る」は「射る」に通じて、魔を射るという意味もあるそうだ。また日本語のダジャレである。きっと中国の鬼にも日本語のダジャレが通じるのだろう。中国で遭ったらこっそり「布団がふっとんだ」とか耳打ちすると良いかもしれない。
さらに、豆に火を通すことには陰陽五行的な意義もあるらしい。そこはもう「ふーん」といっておくことにしよう。
整理すると、鬼に有効な豆は、次の要件の双方を満たすものということになりそうだ。
(1) 「まめ」と発音されるものであること
(2) 煎られていること
二つ目の要件については、「煎られて」いることがダジャレ的な意味で必要だが、火が通されていて、庭から芽が出る心配がなければギリギリOKと解釈しておこう。
さて、殻つきピーナツは、「まめ」であることに間違いはない。一つ目の要件はクリアされた。ちなみに、ダジャレ的な意味では「ピーナツ」と呼ぶより「なんきんまめ」と呼びたい。
また、スーパーで売られている袋入りの殻つきピーナツは、ほぼ間違いなく煎られているはずだ。二つ目の要件もクリアである。
結論としては、殻つきピーナツは、鬼に有効である。これからは心置きなくピーナツを撒いてよい。よかったよかった。
ところで、ほかの豆はどうなんだろうか。
まず、ミックスナッツなどは、間違いなく「まめ」である。煎られているため、効果は抜群だ。小袋に入ったミックスナッツのお得用パックを買って窓から投げると、掃除も楽で良い。ただし、缶入りナッツを投げてはいけない、怪我人が出る。
枝豆も「まめ」である。しかも大豆だ。普通は煎られていないが、茹でられて火が通されたものは効果があるはずだ。掃除も楽そうだが、殻つきピーナツと違って湿っており、埃がつきやすいので食べるときにちょっと抵抗がある。
納豆はどうだろう。いちおう「まめ」である。煎られていないが、製造の過程で火が通っている。ただし、発酵しているところを陰陽五行的にどう評価するかに疑問が残る。納豆菌には殺菌力があるので案外強いかもしれない。ただし、掃除が大変なので上級者向き。
豆腐や醤油に至っては。もはや原型を留めていないので「まめ」かどうか怪しい。どちらも製造の過程で火が通ってるが、豆腐は物理的な意味で弱そうだ。醤油は霧吹きに入れて、ファブリーズみたいに気になるところにシュッシュすると良い。多分、あとでシミになるけど。
以上のとおりである。総合的に見て、豆撒きには殻つきピーナツか、ミックスナッツをお勧めしたい。