鼻猫亭

毎日のこととかぼんやり考えたことなど

水槽が腐海に沈む

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私の家には、金魚の水槽がある。

子供たちが幼稚園のころに、夏祭りの金魚すくいで取ってきたのが最初だったのだけど、それから何度も代替わりを重ねながら今に至っている。今いるのは7センチくらいのが二匹と、5センチくらいのが一匹。

金魚の水槽には、浄化フィルタの付いた空気ポンプを入れてるんだけど、半年以上もフィルタを取り替えるのを忘れていた。むしろ、金魚の水槽自体の存在を忘れていた。食卓の後ろに置いていたのに全然目に留まらなかった。

半年以上もフィルタを取り替えない場合にどうなるか。
金魚の水槽が腐海になる。

ふと気付くと、おぞましき緑色の苔がびっしりと張り付き、ぬらぬらとぬめっている。奴らは恐るべき速度で繁殖し、既に水槽の前面、背面、両側面を侵食し、ついに水槽の天井に至ろうとしている。


これじゃ、いかん、と、ホームセンターに向かいました。


昔から水槽の苔を取るには、石巻貝と決まっている。

タニシによく似た石巻貝は、水槽のガラス面に張り付き、ごしごしと苔を食べてくれる。彼らが通った後は、すっかり苔がなくなって、ピカピカになる。一ヶ月もすると、水槽の全面がクリアになる。頼もしい奴なのだ。

しかし、今回の苔はなかなか手強そうである。さしもの石巻貝とて、苦戦するやも知れぬ。石巻貝だけでは足りないかも知れぬ。
そう思って私は、ホームセンターのペットコーナーの若い店員に声をかけた。

「あの。石巻貝三匹と、ヤマトヌマエビ三匹下さい。」

すると、果たして店員はこう言ったのである。

「苔っすか?」

なんということだ。ホームセンターの店員は、私の下心をお見通しなのだ。
私の、「心を込めて飼育しよう」という志ではなく、「苔を掃除するの面倒くさいから、適当に貝を放り込んで取って貰おう」というあさましき心根を知っているのだ。
私は虚を付かれ、おろおろとうろたえながら

「あ。ああ、はい。」

と答えた。

店員は、畳み掛けるように、

「苔ならこいつがお勧めっすよ。綺麗になくなりますよ。」

と、手元から何やら薬剤の小さなボトルを取り出してきた。

苔にはちゃんと駆除剤があったのだ。

石巻貝で誤魔化そうとしていた私は、無知を恥じ、いたたまれない気持ちで
「うん。また今度ね。」
とにこやかに笑って会計を済ませるのだった。

そんな訳で、現在、私の家の水槽には、三匹の金魚、三匹の石巻貝、三匹のヌマエビが共生している。

石巻貝はせっせと苔を食べているが、「腹が減らなければ別に食べなくて良い」という態度を崩さず、作業は遅々としてすすまない。
ヌマエビに至っては、早々に物陰に引きこもり、全く姿を現そうとしない。

私は、依然として緑色の水槽を眺めながら、苔が綺麗になくなるという魔法のような薬剤を買えばよかったかな、などと思うのであった。

青葉の森公園で彫刻を眺める

 千葉県の千葉市の真ん中あたりに青葉の森公園というやたら広い公園があって、博物館があったり生態園があったり、なかなか気の利いた公園なんだけど、その入口あたりに彫刻の広場と銘打たれた場所がある。名前の通り、開けた場所に、彫刻が20体ばかり置いてある。

 何れも現代日本を代表する彫刻家の手による作品らしいのだが、私は彫刻には疎いので残念ながらどれほど有名な作家なのかとんと分からない。分からないが、どれも妙に味わい深いので、割と気に入っている。

 

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 例えばこの、「とこしえに」と題された作品。何がとこしえになのか分からないが、お父さんの肩に担がれ、無表情で万歳する赤子の造形が味わい深い。

 

 しかもお父さんは明らかにお風呂上がりだ。全裸による筋肉の美しさを表現することを敢えて避け、腰にタオルを巻いたのは、お風呂上り感を出したかったからに違いなかろう。空に突き出た左手は、ひょっとすると冷蔵庫の中のフルーツ牛乳を物色してるのかもしれない。

 

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 こちらの「絆」もなかなかのものだ。

 お母さんらしき人物が、滑り台のようなウェーブがかかったスロープの下で、2人の子供に手を差し伸べてる。お母さんは後ろの方に引っ張られているような体勢だ。

 2人の子供のうち女の子の方は、男の子の肩を踏み台にして、空に向かって飛翔せんとばかりに手を広げている。

 素晴らしい躍動感だ。母親と子供たちを左右に配置して、それらがまるで逆の方向に向かって強い力で引っ張られ、離されていくように感じる。まさに「絆」だ。

 ただし、シチュエーションが全く分からない。あと、踏み台にされてる男の子はもうちょっと文句言っていい。

 

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 「眩驚ーIII」これは文句なしに素晴らしい。せっかくなので、迫りくる感じでお届けしたい。

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どん

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どん

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どん!

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どん!!

 以前はもっと金ピカだったのだけど、最近になって像の表面がところどころダメージを受け始めてるのが残念だ。千葉県は早く修復してあげてください。お願いします。

 

 最後に、「家族の肖像-I」を紹介したい。

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 おじいさんを筆頭に、おばあさん、お母さん、男の子、女の子が同じ方向を向いて立っている。

 おじいさんは水戸黄門のような髭をはやし、作務衣を着てなにやら長い棒を持っている。きっと頑固爺さんだ。たぶん怒ったらこの棒でぶってくる。

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 おばあさんもお母さんも、なんとなく似た風貌の和服の女性で、どちらもどこかにいそうな容姿をしている。


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 特筆すべきはおねえさんだ。

 圧倒的なリアリティで造形された、普通のおねえさんだ。お母さん似のもっさりとした顔立ち。もっさりとしたセーラー服。そして、もっさりとした髪型。どこをどうとってももっさりとしている。

 何だかもう、このリアリズムは残酷ですらある。歳頃の娘さんなんだから、公園に飾られるのだから、もう少し華やかに造っても良かったのではないかと思う。でも作者のリアリズムはそれを許さなかったのだ。

 そして、その結果として、リアリティに溢れたもっさり一家は、みんな同じ方向を向いたまま、いつまでもいつまでも、皆でぼやーんと立っているのだ。

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 たぶん、世界の終わりまで。

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通勤電車で弁当を食べる若者の話

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 通勤電車の中で食事を取るのはマナー上あまり宜しくない。

 

 ローカル線の進行方向に垂直に置かれた座席だと、パーソナルなスペースがある程度区切られているのであまり気にならない。だけど、通勤電車の横並びのロングシートだと、お互いの距離が近い上に仕切られていないので、どうしても気になってしまう。

 人前でものを食べるのがお行儀悪いとか、その手の小煩いことはあまり言いたくないのだけど、なにぶん、お互いの距離が近いせいで電車が揺れるたびにこぼれて飛沫がかからないかとか、現実的な心配がある。

 先日、混雑した通勤電車の中で、タルタルソースがたっぷり挟まったパンを立ったまま食べてる人を見かけた時には、さすがに止めようかと思った。ふらついた拍子にあらぬ方向にパンが飛んでいったら、確実にトラブルになるもの。

 

 さて、その日は仕事が遅くなり、夜の11時ちょっと前に電車に揺られていた。乗客はそれほど多くなくてまばらな感じ。そこに、大学生くらいの若者がコンビニのレジ袋を手に乗り込んできた。

 

 寒い日だったせいで、レジ袋からはほんのり湯気が出てるのが見える。その時点で既にドミグラスソースの匂いが漂っている。

 おそらく、乗客の大半が「おいおい、ここで食べるのかよ。」と思いながら見ている。もちろん、私も思ってる。

 

 若者は、そんな乗客の視線を知ってか知らずか、空いていたロングシートの座席に座り、レジ袋の中からほかほか温まったコンビニのハンバーグ弁当を取り出し、膝に置いた。

 若者は膝の上でシュリンクラップを破り取り、プラスチック容器の蓋をあける。ドミグラスソースの匂いがふわんと一瞬で強くなった。

 

 「やっぱりここで食べるのか」

 「ここで食べるんだな」

 「行儀の悪いやつめ」

 

 匂いが立ち込めると同時に、乗客の視線は厳しくなる。

 

 そのとき。

 若者は、膝の上でホカホカ湯気を立ててるハンバーグの前で、両手の親指と人差し指の間に箸を挟み、やおら手を合わせ、軽く目をつぶり、少し頭を下げて、小さな声で「いただきます。」と言った。

 きっと、どんな食事でも、たとえ周りに誰ひとりいなくても、彼はものを食べる前には必ず、何かに向かって「いただきます」と言ってるのだろう。それはとても自然で嫌味のない動作だった。

 

 「なんだ。良いやつじゃないか」

 「腹が減ってたんだな」

 「慌てずに食べろよ」

 

 どういうわけだか一瞬にして和やかになった乗客の視線の中、若者は終電近い電車の中で、黙々とハンバーグ弁当を食べるのでした。

節分の豆はピーナツでも良いのか

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 節分といえば豆撒きだ。

 

 節分に豆を撒くことで、悪い鬼を追い払い、福を呼び込み、そうすると一年間無病息災で生活できる、と、だいたいこういう段取りになっている。

 

 そして、節分で撒く豆といえば、一般的には煎り大豆だろう。

 節分が近づいてくると、煎り大豆が鬼の面と一緒にスーパーで売られるようになる。撒いて、歳の数だけ食べる。そして、食べ進めるごとに口の中がパサパサになる。

 

 ところが、千葉に来てから、節分でピーナツを撒く一派がいることを知った。殻つきのピーナツを殻ごと撒くのだ。

 

 この点、ピーナツ派の言い分によると、「ピーナツを殻ごと撒くと後で食べやすい」「掃除も楽」なんだそうである。

 確かに、部屋の隅っこに落ちて埃にまみれた豆を食べるのも抵抗があるという人は多いだろう。庭に撒いて泥がついたものなど以ての外だ。その点、殻つきピーナツであれば、殻さえ割れば中身は無事だ。

 また、煎り大豆は小さくてコロコロ転がり、後で掃除するのが大変である。数日経ってから、網戸のサッシの隙間から発見されたりすると大変げんなりする。玄関先に撒かれて、鬼役に踏まれたりなんかすると、細かい破片がそこらじゅうに飛散する羽目になって腹立たしい。

 殻つきピーナツだと、ある程度大きいし、転がらない。発見もしやすいし掃除もしやすい。踏んづけたら粉々になるだろうけど。

 

 そんなわけで、節分豆に殻つきピーナツを用いるのはなかなかのアイデアではあるのだが、ここでひとつ疑問がある。

 

 ピーナツは果たして鬼に効くのだろうか。

 

 仮に、鬼の性質が「煎り大豆は苦手だけど、ピーナツなら平気」というものであれば、ピーナツ撒きはただの徒労である。

 まして鬼が「ピーナツは好物」というのであれば目も当てられない。むしろ寄ってくる。効果のほどが分からなければ、怖くてピーナツなど撒くことはできない。

 

 そもそも、何故、鬼は豆が苦手なのだろうか。

 調べたところ、以下のサイトに理由が紹介されていた。

 

 歳時記の用語「節分の歴史と由来」

 

 豆撒きは中国の習俗が伝わったもの。そして「まめ」は「魔滅」につながり、魔を滅ぼす力があるとされているらしい。

 豆撒きのルーツは中国なのに、日本語のダジャレが通じるのだろうかという疑問が否めないが、そこはそっとしておこう。とにかく、「まめ」であれば良いということのようだ。

 

 ただし、煎った豆でなくてはならないらしい。「生の豆を使うと、拾い忘れた豆から芽が出てしまうと縁起が悪い」かららしい。

 芽が出るのはむしろ縁起がいいんじゃないかって気もするが、まあ、庭から豆がぼうぼうに生えてきても困るので、そういう事にしておこう。

 「煎る」は「射る」に通じて、魔を射るという意味もあるそうだ。また日本語のダジャレである。きっと中国の鬼にも日本語のダジャレが通じるのだろう。中国で遭ったらこっそり「布団がふっとんだ」とか耳打ちすると良いかもしれない。

 さらに、豆に火を通すことには陰陽五行的な意義もあるらしい。そこはもう「ふーん」といっておくことにしよう。

 

 整理すると、鬼に有効な豆は、次の要件の双方を満たすものということになりそうだ。

 (1) 「まめ」と発音されるものであること

 (2) 煎られていること

 二つ目の要件については、「煎られて」いることがダジャレ的な意味で必要だが、火が通されていて、庭から芽が出る心配がなければギリギリOKと解釈しておこう。

 

 さて、殻つきピーナツは、「まめ」であることに間違いはない。一つ目の要件はクリアされた。ちなみに、ダジャレ的な意味では「ピーナツ」と呼ぶより「なんきんまめ」と呼びたい。

 また、スーパーで売られている袋入りの殻つきピーナツは、ほぼ間違いなく煎られているはずだ。二つ目の要件もクリアである。

 

 結論としては、殻つきピーナツは、鬼に有効である。これからは心置きなくピーナツを撒いてよい。よかったよかった。

 

 ところで、ほかの豆はどうなんだろうか。

 

 まず、ミックスナッツなどは、間違いなく「まめ」である。煎られているため、効果は抜群だ。小袋に入ったミックスナッツのお得用パックを買って窓から投げると、掃除も楽で良い。ただし、缶入りナッツを投げてはいけない、怪我人が出る。

 

 枝豆も「まめ」である。しかも大豆だ。普通は煎られていないが、茹でられて火が通されたものは効果があるはずだ。掃除も楽そうだが、殻つきピーナツと違って湿っており、埃がつきやすいので食べるときにちょっと抵抗がある。

 

 納豆はどうだろう。いちおう「まめ」である。煎られていないが、製造の過程で火が通っている。ただし、発酵しているところを陰陽五行的にどう評価するかに疑問が残る。納豆菌には殺菌力があるので案外強いかもしれない。ただし、掃除が大変なので上級者向き。

 

 豆腐や醤油に至っては。もはや原型を留めていないので「まめ」かどうか怪しい。どちらも製造の過程で火が通ってるが、豆腐は物理的な意味で弱そうだ。醤油は霧吹きに入れて、ファブリーズみたいに気になるところにシュッシュすると良い。多分、あとでシミになるけど。

 

 以上のとおりである。総合的に見て、豆撒きには殻つきピーナツか、ミックスナッツをお勧めしたい。

自転車屋から帰る

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息子の誕生日に自転車を買いに行った。

自宅の近所にも自転車屋があるんだけど、品揃えが良いので、新しく買う時には、数キロ離れたショッピングセンターに入ってる自転車屋を利用している。今日も、クルマを走らせて買いに行った。

息子もいつの間にか大きくなった。もう子供用じゃない。
自転車屋からも、「十分大人向けで通用する体格ですよ。」と言われて、息子の身体には少し大きめの、大人向けには少し小さめの、私にとっては少しお値段お手ごろ目の自転車を買った。青くてピカピカした、きれいな自転車だ。

そのまま乗って帰りますか?と言うのに「もちろん」と答える。子供が走って帰るにはちょっと遠い距離だけど、クルマに乗せて帰るつもりである。こういう時のための8人乗りファミリーカーである。

ところで、コンパクトカーのCMで自転車乗せるやつがあったと思う。
でっかく乗ろうという感じのやつ。
車体はコンパクトだけど、中は広々と使えるってやつ。
自転車を積んでお出かけしようと言わんばかりのやつ。

コンパクトカーに出来て、ファミリーカーに出来ないはずがないと思うのは我ながら当然の帰結だ。

CMを真に受けてはならない。

積めないのだ。
多分、二列目のシートを倒せば積めるんだけど、私の家族は赤子を入れて5人である。きっと、東南アジアの乗合バス並みに、助手席に子供らをギチギチに詰めれば自転車を積める。そういうわけにはいかない。途方に暮れる。

「あのさあ。僕、乗って帰れると思うけど?」

息子が言いだした。

なるほど、息子も成長した。走って帰れない距離ではない。
しかし、ショッピングセンターの周辺は交通量が多くてどうも危ない。普段からぼんやりした息子のことだから、ちゃんと道を覚えてるかどうかも危うい。

「それはちょっと心配。私が乗って帰ろうか。」
妻が言う。しかし息子は渋い顔だ。
そりゃあ、買ってもらったばかりの自転車の一番乗りを他人に譲るわけにいかないだろう。

「仕方ない。僕が付き添って走って帰るよ。」
息子が自転車で帰り、私が徒歩で並走するということになった。

少し大きめの新しい自転車は、背伸びをしたい年頃の息子にはちょうど良くて、風を切って走る姿はいかにも気持ち良さそうだ。

その隣を私がのそのそと走る。
私は小さい頃から長距離走が大嫌いである。ウォーキングならばいくらでも歩ける自信があるが、ランニングは全くダメなのだ。なんせ、小学校のマラソン大会では、最初の一歩から歩いていたくらいである。毎朝皇居の周りをジョギングしてる上司を変人を見る目で眺めているのが私である。勘弁してほしい。

私は一分走り二分歩く体で歩を進める。その横を息子が颯爽と走り、追い抜き、私を待つ。私は息を切らせながらそれに追いつく。息子が先に行く。私が追いかける。

こうなってくると、どちらが付き添いか分からない。

残り1キロのところで、ついに限界が来た。

「はあ…はあ。父ちゃんはもうだめだ…。お前は…お前は先に行ってくれ……。」

「うん。分かった。そうするー。」

息子は何のためらいもなく、待っていましたと言わんばかりの態度で、軽やかに、自転車を走らせる。

私は、どんどん遠くなる息子の背中を眺めながら、こりゃ、晩ご飯に遅れるなあ、などとぼんやり考えるのだった。

コロッケそばを考える

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コロッケそばとの付き合いには長年手を焼いてきた。
立ち食いそばのメニューによくある、暖かい汁そばの上にコロッケが浮いてるやつだ。
知らない人は天ぷらそばやキツネそばの、天ぷらや油揚げの代わりに、コロッケが浮いてる姿を想像してみて欲しい。もしかすると、何かの間違いだと思うかもしれない。私がそうだった。だが、思い浮かべた姿が正解だ。コロッケが浮いてるのだ。

最初は、特定の店の面白メニューだと思っていた。しかし、少なくとも関東の立ち食いそばでは、それなりにメジャーな地位を占めているようで、割にどの店でも置いてある。

私はしばらく、コロッケそばを見た目で敬遠していた。つまりは食わず嫌いである。
しかし、時折、チラホラと、「コロッケそばが好きだ」という声が耳に聞こえてくる。まさか、と思うが少し気になる。

ある日、私は思い切ってコロッケそばをオーダーしてみた。「ままよ」という気持ちで、発券機のコロッケそば360円のボタンを押した。
出てきたそばには、果たしてコロッケが浮いていた。
まずはこわごわとコロッケをひとかじりしてみる。

暖かいそばのつゆに浸ってしまったコロッケの味がした。

「つゆに浸した」というより、「うっかり浸してしまった」味である。もっと言えばコロッケをつかみ損ねて、そばつゆの中に落とした味である。そして、あまりに予想通りの味である。

私は、コロッケにはソースだよな、と釈然としたような釈然としないような気持ちで、それきりコロッケそばのことは忘れるようにしたのである。


それが最近、コロッケそばを集中的に食べていた。

きっかけはまんが、「メシバナ刑事タチバナ」の一編に、コロッケそばの食べ方が語られてたことにある。

曰く、「まずはコロッケに箸を入れ、二つに割って一口食べる」「食事の終わりの方まで手をつけずとっておく」「汁を十分に吸い『ふがっ』とした状態を食べる」ということのようだ。

コロッケを割り、あえてもろもろにして食べる。それは盲点だった。
私はむしろ、形を崩さないように食べていたのだ。なんたることか、正解は逆だったのだ。私は自らの不明を恥じた。

それから、私はさっそく、行きつけの立ち食いそば屋で実践してみた。
まずは箸でコロッケを割り、そのまま一口。
つゆに落としてしまった冷たいコロッケの味がする。
そして、残りの部分をつゆに浸してそばを食べるのに専念。きっとその間に、コロッケはつゆを吸い、魅惑のモロモロ状態へと変貌しているはずなのだ。

そして、そばを八割がた食べ終わった時点でおもむろにコロッケを引き上げる。
なるほど、「ふがっ」とした状態になって、いない。

コロッケはやはり冷たく、堅いままだった。そして、つゆに落としてしまった味がした。

こんなはずはない。私は躍起になって、あちこちのそば屋でコロッケそばを確かめてみた。
しかし、私が食べる速度が速いのか、最近のコロッケは堅くできてるのか、なかなか「ふがっ」にはならない。

そして月日は流れ、流れ流れて辿り着いた京成某駅のホームのせまい立ち食いそば屋。そこのそばは、立ち食いそばの伝統に忠実な「うどん粉のつなぎにそば粉を少し使った」風情の、腰のないそばである。大振りなコロッケも、やわらかい造形で、箸を入れるとジャガイモが数片、ほろりとほどける。

これは期待できる…そう思いながら、そばを食べ、八割がた食べたところでおもむろに引き上げる。

果たして、コロッケはつゆを吸ってモロモロと形を崩しながら姿を現した。まさに理想的な「ふがっ」である。私は期待に胸を高鳴らせ、それを口の中に導いた。

やっぱりつゆに落としてしまったコロッケの味がした。

この長い戦いで得た結論は、コロッケそばはどうやっても、つゆに落としてしまったコロッケの味がするということだ。それ以上でも、それ以下でもない。

しかし、この長い戦いが終わったにもかかわらず、私の指は何故か券売機でコロッケそばをチョイスしてしまうのだ。

決してうまくないのに。

決してうまくないのに……。

仁右衛門島に行く

外房の南より、鴨川シーワールドにほど近いところに仁右衛門島という島がある。
島といっても、本土とは浅瀬で隔てられてるだけで、200メートルしか離れていない。ほとんど岬に続く道がたまたま水没したといった風情だ。
この仁右衛門島、千葉県指定の名勝ということになってるわけだけど、個人所有の島らしい。島にたった一軒だけで住んでる島の主が、代々「仁右衛門」を名乗っているので、仁右衛門島と名前がついたらしい。

用事がない日曜日、そういや、しばらく家族で出かけてないね、ということになって、南房まで足を伸ばしてみた。

まだ春には早い房総半島だけど、すっきりと晴れ渡り、寒さも緩んで気持ちが良い。内房からのんびりとした山道を越えて、外房まで行けば、青緑の凪いだ海が出迎えてくれた。

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島へは、渡船場から小舟で向かう。
日に焼けた二人の船頭さんの手漕ぎの船だ。船頭さんは、巧みに櫂を操りながらゆっくりと船を進めてゆく。

「今日も来たの?ご苦労さん」
船頭さんが防波堤の釣り人に声をかける。このあたりの常連さんだろうか。そんな光景を見ながら、ほんの数分で舟は島に着いた。



島の入り口には、売店と食堂があって、そこが入場口のような役割を果たしている。そこで渡船料を支払うのだけど、雰囲気が緩くて、つい見過ごしてしまいそうだ。
売店には、もう数十年は置いてあるだろう流木を使った置物なんかが売ってある。店員さんはいない。食堂は現在休業中、ひょっとすると、シーズンオフなのかもしれない。
入口のおじさんは、「夏になるとここはダイビングのメッカになるんだよ」と教えてくれた。

島は一時間もあれば一周できる大きさだ。ちなみに一応、これでも千葉県最大の島らしい。
高台の上に、仁右衛門さんの家があって、建物の一部と裏庭を見せてくれる。建物は嘉永年間に改装されたという説明があって、とても古い。
古いけど、ぐるっと回ったところには、アルミサッシの引き戸があったりして、今でも仁右衛門さんが住んでるんじゃないかという風情がある。
裏庭には、小さな小屋があってお婆さんが出迎えてくれた。間違って仁右衛門さんの個人スペースに入らないよう、見張りのお仕事をしてるのかもしれない。

「仁右衛門さんはさ、どんなすごいことをしたの?」
娘がふと聞いてきた。
「島を持ってるだけじゃないの?」
よく知らない。
「それだけ?本当にそれだけ?島の名前になってるんだよ?」
「それだけじゃ足りんか?一人で島を持ってるんだぞ。すごいじゃん」
娘は納得がいかなそうに「ふうん。」と呟いた。

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島から戻ると、お昼をだいぶ回ったところだったので、目の前にある喫茶店に入った。
「うちは美味しいよ。テレビも何度も来てるのよ。」
喫茶店のお姉さんが愛想良く笑う。店員さんはみんな明るくて居心地が良い。

「あのさ。うちで夏みかんを貰ったんだけど、余っちゃったので持って帰ってくれない?」
帰り際、お姉さんがそういいながら、なぜか夏みかんを持たせてくれた。黄色い夏みかんみたいにぽかぽかと暖かい、冬の一日でした。